晋州城攻防戦

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晋州城攻防戦(しんしゅうじょうこうぼうせん)は、文禄の役における2回の攻城戦。

朝鮮半島の晋州城(朝鮮語: 진주성(チンジュソン)、現在の晋州市)を守る朝鮮軍を日本軍が攻撃、文禄元年(1592年)10月4日から10日までの第一次晋州城攻防戦では朝鮮軍が守りきり、文禄2年(1593年)6月21日から29日までの第二次晋州城攻防戦では日本軍が攻城に成功した。

第一次攻防戦

第一次晋州城攻防戦
戦争文禄の役
年月日文禄元年(1592年)10月4日から10日
場所朝鮮国慶尚道晋州
結果:朝鮮軍の勝利
交戦勢力
李氏朝鮮 日本豊臣政権
指導者・指揮官
金時敏 細川忠興
戦力
3,800人

他に赴援の義兵

20,000人
文禄・慶長の役

攻防戦の背景

開戦以来、快進撃を続けた日本軍は有効な朝鮮軍の抵抗をほとんど受けないまま約2ヶ月で平壌・咸興などまで急進撃をした。漢城(ソウル)を起点に朝鮮各地へ展開していた日本軍であったが、慶尚道の釜山から漢城を結ぶ三路の後方基幹ルートの確保や全羅道方面に至る西進作戦には積極的でなく、朝鮮軍が活発に後方攻撃を繰り返すにつれて連絡路がしばしば遮断されることがあった。このため漢城方面への補給が滞り、補給路の安全確保のために朝鮮軍の策源地と見られていた晋州城を攻略する必要が生じた。それ以前の晋州城は釜山から漢城へのルートから外れていたため大規模な侵攻を受けていなかった。また朝鮮では晋州城と平壌城が堅城との評価を受けていた。

第一次攻防戦直前の状況

攻略作戦を発動した。 釜山から漢城への連絡路を攻撃してくる朝鮮軍の拠点を晋州城であると考えた日本軍は晋州城攻略のために細川忠興長谷川秀一、木村重茲などの約二万の軍勢を編成し、釜山を出発して9月23日に道中の昌原を攻めた。慶尚右兵使の柳崇仁は官軍と義兵を指揮してここで抵抗したが日本軍に大敗、敗走した柳崇仁は晋州城へ入ろうとするが、部下であり守将の晋州牧使 金時敏は指揮系統の混乱を恐れて入城を拒否した。やむなく柳崇仁は城外で敗兵を再編成して日本軍に野戦を挑むが敗死した。

金時敏は日本の銃戦術の強さを取り入れようと、あらかじめ百七十余挺の銃を鋳造し、また硝薬百五十余斤をつくって、兵に操射の訓練を施して備えていたという。

第一次攻防戦

10月4日、咸安を経由して到着した日本軍の晋州城包囲が始まり6日より攻撃が始まった。晋州城では金時敏を中心に昆陽県監・李光若らが指揮する約3800人の兵士に加え、多くの避難民が城内で防戦に努めた。また城外では郭再祐の配下などの慶州道義兵約1200が日本軍の背後を攻撃し、7日の夜からは崔慶会・任啓英などの全羅道義兵約2500が到着して城外で遊撃戦を行った。日本軍は一時攻城を中断して遊撃軍を牽制し、10日朝より攻撃を再開したが晋州城は容易に攻略できないと判断し、長期戦を厭って退却した。

なお、旧参謀本部編纂『日本戦史 朝鮮役』ではこの援兵の義兵の行動については直接日本軍と戦闘を交えたものではなく、声援を行って日本軍の牽制の役を果たしたものとされている。

晋州城防衛の中心であった金時敏は日本軍の鉄砲によって重傷を負っており、撤退する日本軍を追撃する力はなかった。こうして第一次晋州城攻防戦は朝鮮軍の防衛成功で幕を閉じた。なお、金時敏は攻防戦の後に傷の悪化によって死亡したが、日本側では城を守りきった金時敏を官職の牧使の発音から「もくそ」(正しい朝鮮発音は「モックサ」)、晋州城を「もくそ城」と呼び高く評価した(「もくそ」の当て字は「木曽」)。のちに京都で「もくそ官」として晒されたのはこの金時敏ではなく第二次攻防戦の際に死亡した後任牧使の徐礼元の首である。

第一次攻防戦における日本・朝鮮両軍の編成

日本軍

等 総勢20000人

朝鮮軍

  • 晋州城守備金時敏 3800人
  • 赴援の義兵

第二次攻防戦

第二次晋州城攻防戦
戦争文禄の役
年月日文禄2年(1593年)6月21日から29日
場所朝鮮国慶尚道晋州
結果:日本軍の決定的勝利
交戦勢力
李氏朝鮮 日本豊臣政権
指導者・指揮官
金千鎰
崔慶会
黄進
宇喜多秀家
戦力
約7,000人 92,972人
損害
全滅 不詳
文禄・慶長の役

第二次攻防戦直前の状況

第一次攻防戦の失敗により日本軍は再び消極的な連絡路の防御戦略へ戻らざるを得なくなったが、和平交渉が進展し日本軍の主力が漢城から釜山周辺へ移動したことにより兵力と補給の問題が解消したため、和平条件でもあった朝鮮半島南部の獲得を既成事実とするために再度晋州城を攻略し、あわよくば全羅道方面支配の布石とすることを考えた。

第二次攻防戦

秀吉は約9万の晋州城攻略軍を編成し、前回の教訓から攻城正面は宇喜多秀家、加藤清正、小西行長などに担当させ、毛利秀元、小早川隆景を城外の遊撃対応の担当にした。

攻城戦前、晋州城東北方の星州一帶に明将劉綎は数万の明、朝鮮援軍を集結、その対応のため、第六軍の立花宗茂小早川秀包とともに兵4千で星州へ行ったが、6月13日、劉綎配下の武将琳虎が明、朝鮮軍4万を率いて晋州城の西南の河東郡へ進軍、立花と小早川軍は転進して撃退している[1]。ただし、この戦闘については『懲毖録』では明軍は朝鮮の救援要請に対して、動かなかったともある。

対する守城側では意見がまとまらず、籠城を主張する倡義使・金千鎰(義兵)に対し、明軍は晋州城防衛に不同意であり、朝鮮軍でも方針は分裂し西人派は籠城を主張し東人派は消極的だった。最終的に晋州城内へ集結した兵力は朝鮮軍約7000と避難民だけであった。

6月14日、日本軍は昌原より進撃を開始し、咸安を経由して宜寧に集結していた平安巡辺使・李賓(正字は草冠に賓)、全羅巡察使・権慄、全羅兵使・宣居怡などの朝鮮軍を敗走させた。

6月21日に日本軍は晋州城を包囲すると、攻城用の高櫓を作り、濠の水を南江に落とす土木工事を始める。22日から本格的な攻城戦が始まり、以後城内は猛攻にさらされる。東面からは加藤清正ら一番隊が、北面からは小西行長ら二番隊が、西面からは宇喜多秀家ら三番隊が攻撃し、毛利秀元の四番隊と小早川隆景らの五番隊は周囲の山に陣取り、城外からの遊撃部隊による襲撃を警戒した。

6月27日には宇喜多秀家が降伏勧告を行ったが朝鮮軍には容れられず、29日には亀甲車を用いて城壁を突き崩すと、黒田長政配下の後藤基次や加藤清正配下の森本一久らが先を争って突入し晋州城を攻略した。

軍民を巻き込んで落城した晋州城では倡義使・金千鎰、その子・象乾、慶尚右兵使・崔慶会、忠清兵使・黄進、晋州府使・徐礼元、義兵将・高従厚、金海府使・李宗仁、巨済県令・金俊民などの武将が戦死した。

晋州城攻略後の動向

晋州城を攻略した日本軍は直ちに全羅道へ進撃し、7月5日には求礼、7日には谷城へ進出し、明軍及び朝鮮軍を撃破した。しかし、南原の守りが堅いと見ると9日には晋州城へ撤退した。 この攻略戦以後、日本軍は和平交渉中の在陣のために朝鮮半島南岸に拠点となる城の築城を開始したが晋州城は守備範囲外とされ撤退時に破却された。

第二次攻防戦における日本・朝鮮両軍の編成

日本軍 92972人

朝鮮軍

  • 晋州城守備兵 約7000人(義兵含む 約4000人とする異説もあり)
  • 固城義兵 不詳(援兵に赴くも途中で引き返す)

脚注

  1. ^ 河村哲夫『立花宗茂』P147~P148