新納久饒

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新納 久饒(にいろ ひさあつ、天文16年(1547年) - 寛永元年8月17日1624年9月29日))は、戦国時代薩摩の武将。薩摩守護島津氏の分家、新納氏の人物。父は康久。通称新四郎、五郎右衛門、号は遊甫。子に新四郎、養子に久詮

島津家家臣。新納家の庶流、康久の次男で旅庵の兄。薩摩隈城地頭。龍造寺氏阿蘇氏との戦いに参加。天正13年(1584年)には肥後合志城を攻略する功績をあげている。島津義久豊臣秀吉から琉球征伐の命を受けると、天正18年(1590年)に義久の命で琉球への使者となった。文禄3年(1594年)、文禄の役島津忠恒朝鮮に渡るときに兵糧を調達、飢えに苦しんでいた軍勢を助けるなどの功績があった。乱世の中長寿を全うし、78(数え年)で死去。法名「是信一以」。

フランシスコ・ザビエルが布教のために薩摩へ訪れた際に、久饒の父である康久の居城、市来鶴丸城に立ち寄ったことがあった。久饒は母や弟の旅庵とともに、ザビエルから洗礼を受けたといわれている。