拓跋什翼犍
拓跋什翼犍(呉音:たくばつ じゅういきこん、漢音:たくばつ しゅうよくけん、拼音:Tuòbá Shíyìjiàn 生没年:318年 - 376年)は 五胡十六国時代の代国の王(在位:338年 - 376年)。北魏の時、廟号を高祖、諡号を昭成皇帝と追号されている。『晋書』では渉翼犍と書かれる。
生涯
出生
鮮卑拓跋部の出身。拓跋鬱律の次男として318年に生まれた。初めは後趙の石虎のもとに人質になっていた。
即位
即位に際して、後趙の人質となっている拓跋什翼犍の返還が困難であるとの理由で群臣の反対があり、高涼王拓跋孤を推挙する動きがあったが、拓跋孤が鄴に向かい、自らが人質となることを申し出て什翼犍の返還を迫った。すると、石虎は拓跋孤の気概に感心し、2人とも返還した。
こうして338年、繁畤(現在の山西省混沌県)にて什翼犍は即位、元号も建国と改めた。
治世
建国2年(339年)、百官を設け国家体制を整える。また、ふたたび代国を南北に分割し、それぞれに大人(たいじん:部族長、ここでは官名)を置いた。北部を弟の拓跋孤が監督し、南部を庶長子の拓跋寔君が監督した。この年、慕容皝の妹を娶り后とする。
建国3年(340年)春、雲中郡の盛楽宮(現在の内蒙古自治区和林格爾県)に遷都。
建国4年(341年)秋9月、盛楽城を故城の南8里に築城する。この年、后の慕容氏が卒去した。冬10月、匈奴鉄弗部の劉虎は西の国境に侵攻。什翼犍は軍を派遣し討伐、これを大破する。劉虎が没すると、子の劉務桓が帰順してきたので、什翼犍は娘をやった。
建国18年(355年)、太后の王氏が卒去する。
建国23年(360年)夏6月、后の慕容氏が卒去。
建国26年(363年)冬10月、高車を討ち、これを大破する。
建国28年(365年)春1月、鉄弗部の劉衛辰が謀反。什翼犍はこれを討ち、劉衛辰は遁走する。
建国30年(367年)冬10月、什翼犍は劉衛辰を征伐。劉衛辰は宗族とともに西走する。
建国33年(370年)冬11月、高車を征し、これを大破。
建国34年(371年)春、長孫斤が謀反を起こす。太子の拓跋寔は傷を負い、それがもとで夏5月に卒去した。
建国37年(374年)、什翼犍は劉衛辰を征し、劉衛辰は南走する。
建国39年(376年)、劉衛辰の要請で、前秦の苻堅は大司馬の苻洛を遣わし20万の兵と朱彤、張蚝、鄧羌等の諸道を率いて来寇させ、南の国境を侵す。冬11月、白部・独孤部はこれを防ぐが、敗北する。南部大人の劉庫仁は雲中郡に敗走する。什翼犍は再び庫仁を遣わし、騎兵10万を率いて石子嶺で反撃させるが、敗北する。什翼犍は病にかかり、軍を率いて陽山の北に逃れた。高車雑胡が相次いで反乱した。12月、什翼犍は雲中に戻るが、拓跋孤の子拓跋斤にそそのかされた庶長子の拓跋寔君は諸弟と什翼犍を殺してしまう(『宋書』では前秦に捕らえられた)。これにより代国は前秦の支配下に入り、東西に分割された。
宗室
- 后妃
- 慕容氏…慕容皝の妹
- 慕容氏…慕容皝の娘
- 子
年号
参考資料
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