打刀

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ファイル:Nihontou74.JPG
打刀の刀身と外装(拵え)太刀と比べ反りが弱い

打刀(うちがたな)は、日本刀の一種。通常、室町時代以降はというと打刀を指す場合が多い。

形状

打刀拵えの外装(上段)

全長: 70-90cm(柄の長さを含む)、重さ:700-1,400g前後(作成時期や地域による)、長さ(刃長:露出刃部のみ):室町時代平均2尺3寸5分程度、太閤刀狩以後擦り上げ(磨上げ)られ2尺3寸3分以下、江戸時代武断政治には士分(武士階級)及び武芸者剣術修行者2尺3寸以下・文治政治以降2尺2寸8分以下、それ以外の階級が許可を得て帯刀する場合(逮捕吏神職及び祭祀職神人・祭祀時の扮装役、虚無僧、大関以上の力士芸能大道芸興行者、公家貴族衆、槍持ちなど武家奉公人、その他武官や警備職など特別身分帯刀許可など)2尺2寸3分迄が大刀の定寸と武力規制のため制定。その他庶民であっても届け出があれば旅人は長さ同程度以下の身の細い脇差の携行を護身用に許可された。 また、上記の職務・催事の際ではその他にも刃挽きされ刃の付いていない刀や模擬刀鉄刀(≒兜割)と呼ばれる打刀を模した捕具等を差すことが許可された。

※上記はあくまで大まかな規定であり江戸時代は護国軍事やお国事情・出来事の観点から藩内法により規定がそれぞれ違う。 たとえば示現流が普及した薩摩藩では赤樫などの堅木で造り漆で固めて鉄や銅、真鍮製の蛭金(ひるかね)や針金で巻いて補強した武骨な鞘に収めた薩摩太刀(さつまたち)といわれる全長約115cm-120cm程度の幅が広く重ねも厚い大太刀(野太刀)が多く腰に差された。また、伊達者や歌舞伎者などが流行った時期や地域では見栄えるよう2尺3寸前後の身幅の細長い華美な装飾を施した長脇差:事実上の打刀の大刀を差すことが違法ながらも武家奉公人はじめごく一部庶民にも流行った。 その他にも力士は体格により見合った細太刀なものを、芸能大道芸興行者、祭事及び催事の扮装役は見栄えの観点から2尺3寸を越える大脇差なものを差せるよう時代に見合った風紀上の判断により町奉行所など役所から帯刀許可が下りた。 また、甲州街道沿いを江戸の西の護り手として警備する八王子千人同心は頑健で無骨な長さ2尺5寸-2尺6寸前後(力量による)までの打刀の帯刀許可が下り、太平の世になり警戒を緩めて日光勤番を命ぜられる年代ごろまでは公務勤番時(盆暮れ正月などの休日と休養時・冠婚葬祭・法要及び他の地域出向時以外はほぼ年中無休)は常に自主的義務により他の武士に比べ重い帯刀をせねばならなかった(後に義務は自然解除)。これらの理由により武州多摩郡地域に伝わった天然理心流剣術の一派では太木刀が、また上記理由により示現流では長木刀が鍛錬用に使われだしたという見解もある。

上記の理由により時代を経るごとにどんどん磨り上げ(中芯:なかごを切り詰めその分の刃部を落とし中芯にする規制加工)が行われて刀身が短くなり、目釘穴が改めて穿たれ中芯の見栄えが悪くなったり銘が途切れたり磨り減って消えかけた古刀が続出した。また、中には普段使用されないことを理由に先祖代々伝家の宝刀及び重代の名刀等は一部許容され、または柄を少し長くして刃を磨り上げずにそのままとして柄中に埋め磨り上げたように見せかける、蔵や壁・柱あるいは土中などに防・耐腐食処理(蝋などの脂で覆い固め、白鞘ごと油紙で包んで菰などに何重にも巻く)をして一時的に隠すなど秘匿されて磨り上げの難を逃れた刀もあった。  また、こういった造りが長く頑健な特徴を持つ古刀を幕末の志士たちはこぞって買い求め、これらの需要にも応じて幕末刀(新々刀)や復古刀といった無骨でより実戦的な作刀が再び息を吹き返すことになった。(→下記項目太刀との違い茎 (刀)も参照)

打刀は、主に馬上合戦用の太刀とは違い、主に徒戦(かちいくさ:徒歩で行う戦闘)用に作られた刀である。
反りは「京反り」といって、刀身中央でもっとも反った形で、腰に直接帯びたときに抜きやすい反り方である。長さも、成人男性の腕の長さに合わせたものであり、やはり抜きやすいように工夫されている。

太刀との違い

太刀と打刀(刀)の分かりやすい簡単な見分け方として、刃を上にして左腰に差したときの銘が外向きに刻まれている場合は、おおむね打刀である。しかし、幕末期の新々刀時代の日本刀はこれに準じないものもあり、備中国青江派の刀工のように裏銘を切る場合があるなど、例外も多々あるため、必ずこうなっているというわけではない。由緒のある刀は、磨上げ(すりあげ)て体配的には「打刀」となっている太刀でも、「式正の刀」(太刀)であることを示すために、後世の鑑定家により、「太刀銘」が切ってあることが多い(長谷部国重:圧切(へしきり)長谷部、正宗:中務(なかつかさ)正宗、いずれも国宝)。復古的な精神の漲っていた、幕末期の新々刀の「太刀銘」も同様の理由による。

携帯の方法

太刀は刃を下(地面の方)へ向けて、鞘に付けられている「足緒(あしお)」と呼ばれる部品に「太刀緒(たちお)」を通して腰に吊り下げる。これを佩(は)くという。これに対し打刀はいつでも簡単に抜けるようにするため、腰の帯に差す。これを帯刀する(帯びる)という。
室町時代後期は太刀とおなじく刃を下にしていた(これを天神差しという)が、室町時代末期から江戸時代初期には刃を上にして差すようになった(そのため打刀の銘は左に切られており、飾るときも刃を上にして銘がある「指表(さしおもて)」を見せるようにする)。
ただし、乗馬の際には刀の鞘の鐺(こじり)が馬に当たると馬が言うことを聞かなくなる恐れがあることから、天神差しにするという習慣が残されていた。

歴史

打刀の原型は鎌倉時代から見られ、当初は短いもので「刺刀(さすが)」と呼ばれていた。南北朝時代に長い刀剣が流行するに従い、刺刀も長くなり、それが打刀や脇差になった。

慶長期以降の新刀期の日本刀はおおむねこの形式である。

江戸時代には「大小」の刀のうちの「大」として差した。

出典

  • 福永酔剣
  • 『日本刀よもやま話』雄山閣
  • 『日本名刀工伝』雄山閣
  • 『日本刀大百科事典』雄山閣
  • 『日本刀銘鑑』雄山閣

関連項目