後瀬山城

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後瀬山城
福井県
城郭構造 山城
築城主 武田元光
築城年 1522年
遺構 曲輪跡、堀切・土塁
指定文化財 史跡
位置 北緯35度29分17.52秒 東経135度44分20.68秒 / 北緯35.4882000度 東経135.7390778度 / 35.4882000; 135.7390778
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後瀬山城(のちせやまじょう)は、福井県小浜市にあった日本の城(山城)。若狭最大級の城であったが、比較的標高の高い山上に築かれていたため、北山麓に水堀を廻らせた常時住まいする大規模な守護館武田氏館)が設けられていた。東山麓の発心寺も城砦の一部と考える見方もある。城跡は「国の史跡」に指定[1] されている。

歴史

室町時代

大永2年(1522年若狭国守護武田元光(発心寺殿)によって築城された。のち、三代にわたり守護大名・若狭武田氏の拠点(若狭守護所)として栄えた。若狭に続き丹後の守護も手に入れた武田家の隆盛をみた皇族や公家の一部は京都の戦乱を避け小浜に下向している。

戦国時代

永禄11年(1568年越前朝倉義景が武田家庇護と称して大軍勢を率いて後瀬山城に来訪、武田元明を越前に連れ去った。

安土桃山時代 

朝倉氏滅亡後は、織田信長の家臣・丹羽長秀が入城。石垣を構築するなど安土桃山時代の豪壮な城として大規模に改築された。この時安土城に習い、天守も造営されたと言い伝えられている。 その後、豊臣秀吉の一族である浅野長政木下勝俊が城主となった。

江戸時代

関ヶ原の戦いの論功行賞により若狭一国を与えられた京極高次が入る。 高次は、町作りのため新たに小浜城の築城に取り係ったが高次および京極忠高の京極家藩主時代には完成せず、後瀬山城が近世に入っても依然若狭支配の居城であった。

近世の藩主も麓の城(旧室町時代守護館跡地)に常時住まいしていたので、こと居住に関しては後瀬山城が山城でも支障がなかったと思われる。酒井家時代に小浜城が完成すると1642年廃城となったが城割りは行われず堀や石垣等は残された。麓の城は京極高次の没後、その菩提寺とされ高次の戒名に因み「泰雲寺」と命名された、さらに藩主家が酒井家に替わると「空印寺」と改名されて酒井家の菩提寺として今日に至る。寺院に改められたがなお麓の城の大規模な水堀は残され、酒井家も有事の際には山上の古城跡ともども城砦として使用する意図があったと考えられている。

遺構

木造建築物は残ってはいないが、石垣や空堀など、城の基礎部分の遺構は良好に保存されている。空印寺境内・小浜私立小浜小学校旧校地(現在は移転)が武田氏居館跡にあたる。

脚注

  1. ^ 文化遺産データベース 後瀬山城跡”. 文化庁. 2015年11月21日閲覧。

関連項目