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張紘

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張 紘(ちょう こう、生没年不詳)は、後漢末期の政治家、学者。孫策孫権に仕えた。子綱。張靖・張玄の父、張尚の祖父。広陵の人。『三国志』呉志に伝がある。

若い頃に都に出て学問を修めた[1]。その後、故郷に戻り、太守趙昱から孝廉に挙げられ、その後、茂才に推挙された。三公の役所から招聘を受けたが出仕しなかった[2]

戦乱を避けて、江東に移住した。のちに孫策が挙兵したときに初めて仕官をした[3]。孫策は上奏して正議校尉に任命した。孫策の丹陽討伐に従軍し、このときに孫策が陣頭で指揮を執ろうとしたため、「総大将たる者が最前線に立つべきではない」と諌めた。

張昭や同郷の秦松、陳端と共に孫策の参謀として仕えた。張昭と張紘のうち、一人が随行するときはもう一人は留守を守ったという(『呉書』)。呂布徐州の牧となると、張紘を茂才に推挙して呼び寄せようとしたが、張紘は呂布を嫌っており、また、孫策も引き止めたいと思ったため、孫策はわざわざ呂布に断りの手紙を書いて送った(『呉書』)。

199年、孫策の命で許昌に使者として送られた時、司空であった曹操に侍御史の位を与えられその下へ留められた。その時期に少府の孔融達と親しく交際した[4]。孫策の死後、その隙を突いて曹操が孫権を攻めようとしたとき、他人の喪につけこむべきではない、逆に孫権に恩義を施していくべきと主張した。曹操はその言葉を聞き出陣を取りやめ、孫権に討虜将軍の地位と会稽太守の職を与えた。曹操はまた、孫権を自分の傘下に収めようと考え、張紘を使者として孫権の元に送った。それにより孫権の下に戻った張紘を、孫権は会稽東部都尉とした[5]

孫権にも厚く信頼され、「東部」と尊称で常に呼ばれ(『江表伝』)張昭と共に計略や外交の任務に当たった(『呉書』)。また孫権の母の呉夫人からも孫権のことを託され(『呉書』)、孫権の日常的な振る舞いについても発言をしその行状を改めさせた。

文章の能力に長けていたため、文書の起草や歴史の記録に携わり、詩や賦といった文学作品も多く残し陳琳にも賞賛されていた(『呉書』)。

故郷の広陵太守であった琅邪の名士である趙昱はこれ以前に笮融により殺害されていたが、張紘は当時は力がなく敵を討てないまま悲憤するしかすべがなかったため、会稽東部都尉に任じられた後、役人を派遣し、趙昱の故郷の琅邪国の相の臧宣(臧覇)に依頼して、趙家の縁戚の子に祭祀をつがせるようとりはからった。

孫権が江夏に遠征する際に張紘を都に呼び寄せて留守を任せ、都尉としての仕事も都でこなさせた。その働きに対し孔融は手紙を送り功績を称えた。孫権は張紘の留守役としての仕事の功績を称し褒賞を与えようとしたが、張紘は固辞した。

孫権が合肥に出兵したとき、長史に任命されこれに従軍した。孫権が軽装の騎兵のみを率いて前線に立とうとしたため、これを戒めた。また、合肥から帰還した次の年にまたも出兵しようとしたため、これも戒めた。

孫権に呉から秣陵(後の建業)へ遷都するよう進言し、211年に遷都が実施された(「呉主伝」)[6]。張紘は呉に孫権の家族を迎えにいく任務を与えられたが、呉へ向かう途中で病にかかり、間もなく死去した。60歳であった。死の直前、子の張靖に孫権への遺言を託し、その手紙を読み孫権は涙を流したという。

小説『三国志演義』では、張昭と共に「江東の二張」と称される在野の賢人として登場、先に孫策に仕えた張昭の説得により孫策に仕えている。

脚注

  1. ^ 『呉書』では、太学で博士の韓宗に学び、儒教の各経典を修めたとある。
  2. ^ 『呉書』では、大将軍何進太尉朱儁、司空の荀爽から招聘を受けたとある。
  3. ^ 張紘は母の喪中であったが、孫策がじきじきに出向いて臣に迎え、張紘は孫策に丹陽を中心に挙兵し、江東を取るようすすめたという(「破虜討逆伝」が引く『呉歴』)
  4. ^ 『呉書』によると、許都の人達と語らうときも、孫策の功績と漢室に対する忠義を強調することを忘れなかったとある。
  5. ^ 曹操は張紘を九江太守に任命しようとしたが、張紘は病気と称してこれを固辞した。
  6. ^ 『江表伝』によると、秣陵に王者の気が見えたためだという。後に呉を訪問した劉備も同様の発言をしたため、孫権は賢者の考えることは同じなのだと喜んだという。一方、『献帝春秋』では、孫権自身の意思で軍事的な理由から遷都を実施したとある。