川勝重氏

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川勝重氏
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正15年(1587年
死没 承応2年8月24日1653年10月15日
別名 少三郎、太郎兵衛(通称)
戒名 宗玄(法名)
墓所 東京都文京区小石川の光岳寺
幕府 江戸幕府 旗本
主君 徳川家康秀忠家光家綱
氏族 本姓:秦氏秦河勝後裔
名字:川勝氏
父母 父:川勝継氏、母:蘆田氏
兄弟 川勝秀氏川勝重氏川勝氏久
某(三右衛門)
正室:赤井忠家の娘
川勝将氏赤井公久、某(作右衛門)、
女子(鈴木重氏室)、女子(田付景利室)
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川勝 重氏(かわかつ しげうじ)は、安土桃山時代武将、後に江戸時代前期の旗本。継氏系重氏流川勝家の初代当主。

生涯

天正15年(1587年)、川勝継氏の二男として丹波に生まれた。慶長8年(1603年)召されて将軍徳川家康に仕え、慶長12年(1607年)7月に甥の川勝広綱より丹波国氷上郡内に500石の分知を受けて旗本家を興した。家紋は釘抜、桐に鳳凰。通し字は「」。

慶長20年(1615年大坂夏の陣に供奉した[1]元和3年(1617年)5月26日、将軍徳川秀忠より所領安堵の御判書を賜った[2]。後に、小姓組を務め、その後書院番となった。寛永10年(1633年)2月7日、武蔵国橘樹郡内に200石を加えられ、合わせて丹波武蔵内700石を知行するようになった。後に番を辞して、小普請となった。承応2年(1653年)8月24日、67歳で没した。家督は嫡男の将氏が継いだ。

脚注

  1. ^ 大坂夏の陣を以って、戦国期からの戦乱の世は終焉した。これを元号から元和偃武という。
  2. ^ 江戸時代、将軍からの御判書による所領安堵は、朱印状によるものと較べて格式が高いものとされた。

参考文献

  • 『寛永諸家系図伝(第14)』続群書類従完成会、1992年
  • 『寛政重修諸家譜(第18)新訂』続群書類従完成会、1981年

関連項目

先代
継氏
川勝継氏系重氏流
初代:1603年 - 1653年
次代
将氏