島津忠徹
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 寛政9年8月2日(1797年9月21日) |
死没 | 天保10年4月26日(1839年6月7日) |
改名 | 護之助・又四郎(幼名)、忠徹 |
戒名 | 徳元院殿前飛州刺吏真誉実道鶴山大居士 |
墓所 | 東京都小金井市前原町の幡随院 |
官位 | 従五位下、筑後守、飛騨守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 日向佐土原藩主 |
氏族 | 島津氏 |
父母 | 父:島津忠持、母:雅姫 |
妻 | 正室:島津斉宣の娘・随姫(祀姫、随真院) |
子 |
忠施、小川久抹、忠寛、宮原義敬(四男)、 勵(伊達宗孝正室)、美子(遠山友禄正室)、 艶(京極高厚正室) |
島津 忠徹(しまづ ただゆき)は、日向佐土原藩の第10代藩主。
生涯
寛政9年(1797年)8月2日、第9代藩主・島津忠持の長男として生まれる。文化13年(1816年)、父の隠居により家督を継いだ。藩政においては文治を奨励した。ところがそのために、家臣団の間で武断派と文治派による派閥抗争が起こり、それにより本家薩摩藩も介入しての大規模な粛清が行なわれている。結局は文治派が勝利し、文政8年(1825年)には藩校・学習館が創設された。藩財政においても、苦しくなった台所を再建するために藩札発行や製紙業の専売化などを行なって、天保8年(1837年)までに藩財政を再建している。