岩谷真哉

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岩谷 真哉(いわや しんや、1961年昭和36年)10月5日 - 1984年(昭和59年)5月8日)は、日本の俳優岐阜県各務原市出身、O型

来歴・人物[編集]

1981年早稲田大学に在学中、共に早稲田大学演劇研究会に所属していた鴻上尚史大高洋夫、名越寿昭らと劇団第三舞台を旗揚げした。旗揚げ公演は「朝日のような夕日をつれて」である。以降、「宇宙で眠るための方法について」(1984年)までの全作品に出演、劇団の看板俳優の一人として重要な役どころを演じた。

1984年5月8日、岩谷は大学からバイクで帰宅する途中、早稲田通り高円寺付近で交通事故に遭い、病院に運ばれたがそのまま息を引き取った。岩谷の逝去に伴い、劇団は最後の大隈講堂裏特設テント公演として準備していた「プラスチックの白夜に踊れば」を中止した。岩谷の死を当時付き合っていた劇団員の彼女に伝えたのは鴻上尚史であったという。

第三舞台の主宰である鴻上は、後にこう語っている。曰く「岩谷がもし生きていたら、野田秀樹と肩を並べるほどの名俳優になっていただろう」と。また「彼の評判は観客の口コミを通して他劇団の演出家にまで伝わっていた。それほどの役者だった」とも。[要出典]ビデオの中で長野里美も、岩谷の妥協しない芝居への姿勢を語っていた。

第三舞台は岩谷の死により看板俳優を失ったといわれたが、岩谷の死をバネにして、その後の活躍があったともいえる。[独自研究?]岩谷の死後、岩谷の母親が亡くなるまで(1996年)の間は、岐阜県の実家に毎年劇団員で訪れるのが通例となっていた。