山科言経
山科言経(やましな ときつね、天文12年7月2日(1543年8月2日) - 慶長16年2月27日(1611年4月10日))は、戦国から江戸時代初期の公卿。正二位、権中納言。父は山科言継、母は葉室頼継の女。『言経卿記』の著者。
天文22年(1553年)、11歳で従五位上・世襲の内蔵頭に任ぜられたことから衣冠や衣文をはじめとする有職故実に通じていたことがうかがえる[1]。元亀元年(1570年)に従三位、元亀2年(1571年)に参議、天正5年(1577年)に権中納言。天正13年6月24日(1585年7月21日)、冷泉為満・四条隆昌とともに勅勘を蒙り、京都から出奔した。理由ははっきりしないが、山科家領と禁裏領(天皇の私領)とのあいだで年貢の徴収をめぐって争いがあったためとも言われる。縁戚関係にあった本願寺の庇護を受け、本願寺の京都移転にともなって言経も京都に戻ったが、なお勅勘は解除されなかった。天正19年3月20日、徳川家康から10日間の扶持5人分、二斗五升を与えられる。文禄元年9月18日、家康同意のもと豊臣秀次からも召し抱えられる。秀次事件では連座の対象となったが石田三成によって容疑が取り消された。その後、家康の強い推挙で、慶長3年12月7日(1599年1月3日)になってようやく赦免され、朝廷に復帰した。慶長7年(1602年)、正二位。 言経は豊臣秀次の内情や豊臣一族の事情を逐一事細かに家康に報告している様子が『言経卿記』の随所から見られる[2]。
医療・療治の知識があり、豊臣政権の番医とも親しくしていたことが知られている[3]。
言経の京都不在中、山科家は断絶したものとみなされ、言経に代わる当主を立てて山科家の再興が行われた。言経の復帰で山科家当主の地位を失ったこの人物は、結局、彼のために新しい家を創立して処遇されることとなった。これがのちに猪熊事件を起こすことになる猪熊教利である。
日記に『言経卿記』がある。