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山川二葉

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山川 二葉
生誕 1844年9月30日
死没 (1909-11-14) 1909年11月14日(65歳没)
職業 女子教育者
配偶者 梶原平馬
子供 梶原景清
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山川 二葉(やまかわ ふたば、1844年9月30日弘化元年8月19日) - 1909年明治42年)11月14日)は、明治時代初期の教育者

会津藩国家老山川重固、母会津藩家臣西郷近登之の娘えんの間に7人兄弟の長女として出生。 、三輪、健次郎、常磐、咲子の弟妹がいる[1]

山川は1868年から1869年に行われた戊辰戦争において会津若松城の防衛戦に参加した。同藩家老梶原平馬と結婚したが、短期間で別れ、一子景清は二葉が養育した。景清は海軍軍医として、呉海軍工廠軍医長などを務めて軍医大佐となり、また創設以来の稚松会会員である[2]

明治時代にはお茶の水女子大学の前身である女子高等師範学校に勤務した。同藩出身の校長高嶺秀夫の紹介であり、勤続28年であった。教育に果たした功績から山川は高等官となり、従五位に叙せられた。

脚注

  1. ^ 遠藤2008、27頁脚注。ほかに夭折した兄弟が5人。次女三輪は会津藩士桜井政衛の妻。三女操子は会津藩士小出光照に嫁ぎ、夫を佐賀の乱で亡くした後宮内庁に入り御用掛兼昭憲皇太后附女官、フランス語通訳として仕えた。
  2. ^ 『稚松会会員名簿』(明治45年3月調)、『財団法人 稚松会名簿』(昭和12年12月)

参考文献

  • 阿井景子『明治を彩った妻たち』新人物往来社、1990年。ISBN 4-404-01742-1 
  • 遠藤由紀子「会津藩家老梶原平馬をめぐる女性 -山川二葉と水野貞-」『昭和女子大学女性文化研究所紀要』第35号、昭和女子大学、2008年3月、pp.25-41。 
  • 小島一男『会津人物事典 (武人編)』歴史春秋社、1995年。
  • 山川健次郎『会津戊辰戦史』
  • アジア歴史資料センター『観桜会 (2)』レファレンスコード C08051343300

外部リンク