小笠原長育

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小笠原 長育(おがさわら ながなり、安政6年11月28日1859年12月21日) - 明治28年(1895年1月9日、満35歳没)は、日本の子爵大正天皇東宮侍従を務めた人物。

経歴

越前勝山藩信嶺系小笠原家10代・小笠原長守の長男として生まれる。

1873年(明治6年)5月17日、父の隠居に伴い旧勝山藩主家の家督を継いだ[1]1884年(明治17年)7月8日に子爵を叙爵[2]。次いで慶應義塾に入学し、慶應義塾大学部を卒業した[3]。子爵華族の中で高い地位と発言力を持ち、帝国議会発足初期の頃には子爵会規則の起草などに参加した。また、1890年(明治23年)に開かれた華族の研究団体である華族同方会では『武勇論』、『軍備要論』とする軍人のモラルを論じる演説、論文を発表するなど、貴族院議員で無いにも関わらず、特にタカ派として創成期の華族に対して強い発言力を持った。

また、1893年(明治26年)12月に東宮より小学生のための遊具として『尚武須護陸』(しょうぶすごろく)を刊行[4]靖国神社を上がりとする人生双六を考え出した。独自の強兵論と新政府軍への軍事顧問としての持論を持っていた。

親族

父は小笠原長守。妻は小久保藩主・田沼意尊の次女・路。子に勁一(貴族院議員)、妹・養女に麗子(土井利剛夫人)らがいる[1]

脚注

  1. ^ a b 『平成新修旧華族家系大成』上巻、348-349頁。
  2. ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
  3. ^ 『慶應義塾入社帳第1巻679項、第5巻261項』
  4. ^ 「尚武須護陸」に読みとる歴史 大濱徹也

参考文献

日本の爵位
先代
叙爵
子爵
勝山小笠原家初代
1884年 - 1895年
次代
小笠原勁一