富樫泰高

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富樫 泰高(とがし やすたか 応永25年(1418年)? - 没年不詳)は室町時代守護大名加賀守護。富樫家8・10・15代当主(高家の代から数えての数)。富樫満春の3男。富樫持春富樫教家の弟。子に泰成。孫(泰成の子)に稙泰。幼名は慶千代。富樫介を称した。

生涯

当初は醍醐寺喝食であった。しかし嘉吉元年(1441年)、兄教家が将軍足利義教の逆鱗に触れて蟄居したため、還俗して家督を継ぎ、泰高と名乗った[1]。しかし、足利義教赤松満祐暗殺されると、教家が畠山持国を後ろ盾にして家督の返還を要求、これを拒否して管領細川持之を後ろ盾にして富樫家を2分とする内乱を生じさせた(加賀両流文安騒動)。

細川持之が管領を辞すと畠山持国が管領に就任し、加賀守護は教家の子・成春に奪われた。しかし、加賀からは退去せず、在地勢力を味方につけて頑強に教家・成春派に抵抗した。

文安2年(1445年)、一時勢力を失っていた泰高だったが、彼を後援していた細川勝元が管領に就任すると、状況は一変し、教家一派を追放することに成功した。結局6年間の内乱の末、加賀を2分してそれぞれ半国の守護を分け合うことで合意した。この内乱のさなか、加賀守護だった斯波満種の子・持種が泰高方に武力介入している。また、長禄2年(1458年)に赤松政則が加賀北部半国の守護になっている(後に成春の子・富樫政親が奪回)。

寛正3年(1462年)、成春が病死したことで再び加賀一国の守護となる。しかし2年後の寛正5年(1464年)、幕府に隠居を求め、許可されて隠居、家督は政親が継いだ。

しかし、その24年後の長享2年(1488年)、政親が加賀一向一揆によって自害すると、一向一揆により擁立される。実際の加賀支配権は蓮如の3人の息子(松岡寺住持蓮綱光教寺住持蓮誓本泉寺住持蓮悟)に握られ、傀儡として当主とされていたのだが、国内の荘園を押領して独自の権力の強化に努めた。

明応2年(1493年)、明応の政変を避けて越中放生津へ下向した足利義稙の元へ馳せ参じている。没年は不明で、子の泰成は早世、孫の稙泰が家督を継いだ。法名・瑞光院殿真幸。

泰高の生年については、館残翁の著書『冨樫氏と加賀一向一揆史料』において、泰高の年齢が「兄持春より五年後の出生として」との記述を元にした。泰高の没年については、木越祐馨の著書『日本の名族七-北陸編-』において、「明応9年(1500年)11月から永正3年(1506年)3月にいたる間に死亡した」と明記している。

関連項目

脚注

  1. ^ 富樫氏の争いと長享の一揆”. 野々市市. 2013年7月28日閲覧。