宋憲

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宋 憲(そう けん、生没年不詳)は、中国後漢時代末期の武将

正史の事跡

姓名 宋憲
時代 後漢時代
生没年 〔不詳〕
字・別号 〔不詳〕
出身地 〔不詳〕
職官 〔不詳〕
爵位・号等 -
陣営・所属等 呂布曹操
家族・一族 〔不詳〕

呂布に仕えた部将で、呂布に従って各地を転戦したと思われるが、具体的な事跡は不詳である。建安3年(198年)12月、呂布が曹操に攻められて下邳城に追い詰められたときに、同僚の魏続侯成と共謀して呂布を裏切り、曹操軍を城内に招き入れた。このとき、呂布の参謀・陳宮を生け捕りにしている[1]。これにより呂布は滅亡した。その後、宋憲の記述は史書に現れない。

物語中の宋憲

小説『三国志演義』では、呂布配下の八健将(序列第7位)として登場する。最初の曹操との戦いでは、曹操を後一歩まで追い詰めたが、曹操配下の部将・典韋に撃退される。袁術との戦いでは、魏続と共に袁術側の部将・陳蘭と戦い、これを撃破した。

下邳城攻防戦では、史実同様に曹操に寝返ったが、陳宮だけでなく、呂布も生け捕りにしたことになっている。また、呂布が刑場に引かれていく際には、呂布と罵り合いをしている。建安5年(200年)の官渡の戦いのとき、曹操軍の武将として出陣し、袁紹軍の勇将・顔良に挑んだが、3合も打ち合えずに討ち取られた。ただし、これも史実ではない。

注釈

  1. ^ 後漢書』呂布伝によると、宋憲らは、呂布配下の勇将高順も捕縛している。

参考文献