大道寺資親

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大道寺 資親(だいどうじ すけちか、?-元亀元年3月21日1570年[1])は、戦国時代後北条氏の家臣。大道寺周勝の子とするのが通説であるが、弟や従兄弟とする説もある。大道寺政繁の父。受領名駿河。通称は弥三郎。

周勝の生前よりその所領の一部を譲られていた。周勝の死後、河越城城代鎌倉代官を兼ねた。永禄12年(1569年)には北条氏邦の指揮下で武田信玄支配下の駿河興津城を攻めた。同年には玉縄城主北条氏繁に鎌倉代官を譲って行政と軍事の一体化が図られるが、行政の停滞を招いたためにその年のうちに中止されて復職している。

また、北条氏康鎌倉尼五山太平寺の破却を命じた時には、同寺の仏殿を円覚寺に移設する工事を指揮している。(この仏殿は舎利殿として使われ、後年国宝に指定された)

永禄9年(1566年)、寄進を行い桂昌庵を創建した。[2]

また、遠山康光とともに越相同盟締結に尽力した。元亀元年(1570年)に死去し、息子・政繁が河越城代に、北条氏繁が再度鎌倉代官に任命されている。

参考文献

脚注

  1. ^ 『北条早雲とその一族』220P
  2. ^ 新編相模国風土記稿 巻之八十 鎌倉郡巻之十二 桂昌庵の項