大久保氏
三河大久保氏
関東の豪族・宇都宮氏の庶流である武茂氏からの分流で、南北朝の争乱の際に武茂時景の子の武茂泰藤が三河国に移住したのが始まりで、その子孫が松平氏に仕えたとされるが、真相は不明である。当初は宇都宮氏にあやかり宇津氏と名乗っていたが、大久保忠茂又は大久保忠俊の代に大久保(大窪)姓を称した。
『柳営秘鑑』の中では、安祥松平家(松平宗家・徳川家)安祥城居城時代からの最古参の安祥譜代7家の1つに挙げられている。
徳川家康の配下として活躍したのは忠茂の孫で、大久保忠員の子である大久保忠世、忠佐の兄弟が主要な合戦で武功を挙げている。
江戸幕府草創期
忠世の子・大久保忠隣は徳川秀忠付けとなり、やがて老中に抜擢されるほど重用される。だが、次第に本多正信と正純の親子との権力抗争に発展してしまう。
1613年(慶長18年)、本多親子は忠隣の家臣・大久保長安の横領行為(大久保長安事件)を家康に密告した。これにより、家康は長安の墓を掘り起こさせて遺体を磔にし、その上、長安の遺族さえも処刑させた。
長安の庇護者であった忠隣へも類は及び、改易処分となる。身柄は井伊直孝に預けられ、近江国栗太郡中村へ配流された。跡目に期待していた長子・忠常を失って以来、失意の底にあった忠隣は赦免される事なく、その地で没している。
忠隣の次男以下も処分対象であったが、蟄居処分で済んでいる。
御赦免
政敵・本多親子の失脚から3年が経っていた1625年(寛永2年)、忠隣の孫・忠職の代になって、ようやく赦免された。当時22歳の忠職は、母方の従兄弟・松平忠隆の死去に伴い、美濃国加納藩の新たな藩主となって大久保家嫡流(大久保加賀守家)を再興させた。
実子に次々と早世された忠職の跡を継いだ大久保忠朝の代から再び、相模国小田原藩に封された。相模守忠隣の改易から、実に70年余の歳月が流れている。その後も小田原藩の統治が続き、明治維新を迎える事ができた。1869年(明治2年)の版籍奉還後、小田原藩の10代藩主・大久保忠良は、そのまま藩知事となった。しかし1871年(明治4年)、廃藩置県の施行によって小田原藩は解体。忠良も罷免された。
傍系
戦国期の忠世・忠佐兄弟には、他にも『天下の御意見番』の異名で呼ばれる忠教という著名な弟がいた。兄・忠佐からの跡目相続要請を固辞して、旗本で生涯を終えている。
彦左衛門の系統以外に、忠為の系統も存在する。忠為の直系孫・常春は下野国烏山藩を起こした上に、老中に抜擢された。
忠為の四男・忠舊は紀州藩士となっていたが、孫娘・深徳院は9代将軍・徳川家重の生母となっている。そのため深徳院の弟たちは幕臣に召し出された。
なお、幕末・明治期の政治家大久保一翁(忠寛)は、大久保忠俊の庶子で嫡出の忠勝とは別家の旗本を起こした大久保忠安の末裔である。
三河大久保氏系図
- 実線は実子、点線(縦)は養子。
宗家・小田原藩系
武茂泰藤 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
武茂泰綱 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宇津泰道 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宇津泰昌 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宇津昌平 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宇津昌忠 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宇津忠与 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大久保忠茂1 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠俊 | 忠員2 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠勝 | 忠世3 | 忠佐 | 忠包 | 忠寄 | 忠核 | 忠為 | 忠長 | 忠教 | 忠元 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
康忠 | 忠隣4 | 忠兼 | 烏山藩系 | 忠名 | 包教 | 政雄 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
康村 | 忠常5 | 石川忠総 | 石川成堯 | 幸信[1] | 教隆[2] | 忠隆 | 忠直 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
康任 | 忠職6 | 忠朝 | 教勝 | 忠直 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
康明 | 宇津季之 | 忠倫 | 忠朝7 | 教福 | 忠英 | 忠備 | 下條信近 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
康命 | 忠増8 | 宇津教信[3] | 教寛 | 石川総為 | 忠恒 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
康致 | 忠方9 | 石川総陽 | 宇津教保[4] | 宇津教逵 | 教端 | 教平[5] | 忠順[6] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
康寛 | 忠興10 | 忠紀 | 忠章 | 教起 | 教近 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠由12 | 忠厚 | 教倫 | 教翅 | 教富 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠顕13 | 忠彦 | 教翅 | 教文 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠隆 | 忠真14 | 教孝 | 教徳 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
井上正健 | 忠脩 | 忠愨15 | 教業 | 教義 | 教愛 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠礼16→18[7] | 忠良 | 教正 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠一19 | 忠良17 | 教尚 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠言20 | 教道 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠智21 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
烏山藩系
忠員 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠為1 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠知2 | 忠貞[8] | 忠舊 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠高3 | 忠直[9] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
常春4 | 忠宜 | 忠寛[10] | 深徳院 | 往忠 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
忠胤5 | 忠篤[11] | 忠省[12] | 往忠 | 徳川家重 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
忠卿6 | 忠喜 | 忠翰[13] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠喜7 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠邦[14] | 忠成8[15] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠保9 | 忠声 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠寿 | 忠美10 | 一色忠金 | 忠貫 | 戸田忠養 | 松平〈奥平〉忠誠 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
忠順11 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠春12 | 忠誠 | 忠篤 | 桜井忠正 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠訓13 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
- ^ 旗本寄合席・上総国、武蔵国、上野国内5,000石。
- ^ 旗本寄合席・上総国、安房国、上野国、伊豆国内5,000石。
- ^ 旗本寄合席・下野国芳賀郡内4,000石。
- ^ 旗本寄合席・小田原藩内蔵米6,000俵。
- ^ 旗本寄合席・相模国、駿河国内3,000石。
- ^ 小田原藩大久保家一門、忠備の外孫。
- ^ 讃岐高松藩主・松平〈水戸〉頼恕の五男。
- ^ 旗本寄合席・武蔵国、上総国、下総国内5,000石。
- ^ 紀州徳川家臣・加納久利の三男。
- ^ 旗本寄合席・下野国内5,000石。
- ^ 旗本・烏山藩内2,000石。
- ^ 笹本喜福の子。
- ^ 下野壬生藩主・鳥居忠瞭の次男。
- ^ 下野宇都宮藩主・松平〈深溝〉忠恕の長男。
- ^ 下野宇都宮藩主・松平〈深溝〉忠恕の三男、忠邦の実弟。
その他の大久保氏
薩摩国出身の大久保利通の一族がいる。薩摩藩士の大久保家は藤原姓とされるが定かではない。「甲東逸話」では一説、源姓畠山氏の一族で戦国時代に京都から薩摩に移るという。また、寛文年間の「諸家大概」にその系図を偽者扱いされている大窪源太左衛門という人物が源姓畠山氏を称しているが、この人物と当大久保家との関係は不明。貞享年間に市来郷川上に下り、後年に鹿児島城下に戻るという。彼の一族については大久保利通を参照。
利通系薩摩大久保氏系図
- 実線は実子、点線(縦)は養子。
大久保仲兵衛 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
勘之丞 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
正左衛門(初代) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
正左衛門(2代目) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
利辰 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
利政 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
利敬 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
利建 | 治良介 | 利世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
利世 | 利貞 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
利通 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
利和 | 牧野伸顕 | 利武 | 利夫 | 石原雄熊 | 駿熊 | 七熊 | 利賢 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
利武 | 利春 | 利秀 | 利康 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
利謙 | 利正 | 通忠 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
利泰 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||