四王天政孝

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四王天政孝
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 生年不詳
死没 天正10年6月13日1582年7月2日
別名 通称:又兵衞、但馬守
主君 明智光秀
氏族 四王天氏(藤原姓とも)
兄弟 政孝政実
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四王天 政孝(しおうてん/しほうてん まさたか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将および大名戦国武将明智光秀の家臣。通称は又兵衞または但馬守を称した。

略歴

太平記英勇傳二十九:四王連左可馬頭政高(歌川国芳作)
太平記英勇伝五十二:四王天又兵衛政明(落合芳幾作)

丹波国氷上郡柏原庄平井村の人。弟に政実がいるが、政実は政孝の子とも言う。

明智光秀が丹波に入国した前後にその配下となった。天正3年(1575年)の丹波攻めに参加するが敗退。同年の越前攻めや、翌年の石山攻め(石山合戦)などにも兄弟で従軍した。

天正6年(1578年)に赤井直正が病死すると、天正7年(1579年)、再来した明智軍(織田軍)の部将であった政孝は、氷上郡に入って高見城を落とし、天田郡の鬼ケ城も抜いた。八上城攻略時には波多野秀治と政実が格闘し、政孝が捕えたと云う。8月には赤井氏の居城・黒井城がついに落城して、光秀は丹波を平定した。

光秀は丹波に諸将を配して、四王天兄弟を福知山城代とし、政孝は福知山城周辺に1万石の知行を得た。

本能寺の変の際には、負傷した明智光忠に代わって政孝が二条城攻めを指揮した。政実は本能寺で森蘭丸を討ったと云うが、これには異説もあり、政孝とも別の人物とも云う。

天正10年6月13日山崎の戦いで、政孝は光秀に先んじて戦死した。政実は逃れ、名を変えて青木秀以次いで結城秀康に仕えた。

関連事項

参考文献

  • 松井拳堂『丹波人物志』臨川書店、1987年。ISBN 4653015473