唐廷枢

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唐廷枢

唐 廷枢(とう ていすう、Tang Tingshu1832年5月19日 - 1892年10月7日)。初名は、字は建時、号は景星または鏡心末の洋務運動の推進者。

生涯

香港時代

広東省香山県唐家村(現在の珠海市唐家湾鎮)出身。1842年香港のモリソン記念学校に入学。同窓に容閎黄勝黄寛がいる。6年間の学校生活で英語を身につけ、1848年に卒業した。1851年より香港政庁で通訳として勤務した。そこで中国海関総税務司のホレイショ・ネルソン・レイと知り合い、1858年にレイの紹介で上海に赴き、上海の税関の通訳兼事務長となった。

買弁として

1861年、税関の職を辞して、綿花業の「修華号」を創設した。これは清国内の綿花をジャーディン・マセソン商会に卸すのを主要な業務としていた。1863年にジャーディン・マセソンに入社し、金銭の管理、物資の購入、海運の開設、市場の拡大についての責任者となり、同社の天津事務所で活動した。

なお、ジャーディン・マセソン商会入社の1年前の1862年には英語辞典・英語教科書である『英語集全』を出版している。

洋務運動

1873年、ジャーディン・マセソン商会を辞職し、李鴻章の招きで中国最初の近代的海運企業・輪船招商局の総裁となった。就任後、招商局の資本を20万両から100万両に拡大させ、招商局は清で最大の海運企業となった。

1876年、李鴻章の依頼で直隷省の開平炭鉱の開山の準備にあたり、1876年に開平炭鉱は「官督商弁」(官が監督し民間が経営する)の形で正式に成立した。これは当時としては最新鋭の設備を有した、中国で初の株式会社であった。

開平炭鉱で生産された石炭を輸送するため、唐廷枢は1881年より鉄道の建設を始めた。しかし保守派の反対を受け、西太后は唐廷枢を獄につないだが、間もなく釈放された。

1885年より輪船招商局を離れ、開平炭鉱の経営に専念した。

この他、1875年から1886年まで多くの保険会社を設立し「中国の保険業の父」と呼ばれている。

関連項目