周道剛

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周道剛
プロフィール
出生: 1875年光緒元年)
死去: 1953年
出身地: 四川省成都府双流県
職業: 軍人
各種表記
繁体字 周道剛
簡体字 周道刚
拼音 Zhōu Dàogāng
ラテン字 Chou Tao-kang
和名表記: しゅう どうごう
発音転記: ジョウ ダオガン
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周 道剛(しゅう どうごう)は、中華民国の軍人。川軍(四川軍)の有力指揮官。蓁池

事跡[編集]

四川武備学堂を卒業後、日本へ留学する。陸軍士官学校第3期歩兵科で学んだ。卒業後に帰国し、四川陸軍学堂監督、四川新軍管帯、第33協第65標標統などを歴任する。

1912年民国元年)、四川都督署陸軍部長をつとめる。まもなく北京総統府諮議官に異動した。また、進歩党にも入党している。

1916年(民国5年)、護国戦争に際して蔡鍔らの護国軍に呼応し、袁世凱討伐に参加した。蔡から四川軍第1師師長に任命されている。四川軍の劉存厚雲南軍の羅佩金貴州軍の戴戡による四川省での三つ巴の混戦を経て、1917年(民国6年)7月までに羅佩金は四川省を撤退し、戴戡も戦死する。これを受けて周道剛が北京政府から代理四川督軍に任命された。

周道剛は、勢力確保のために、長江上遊司令兼四川査弁使呉光新の援軍を受けた。しかし、顧品珍らの雲南軍の攻撃を受けて周は敗北し、同年12月には下野に追い込まれた。

日中戦争(抗日戦争)期から1948年(民国37年)3月まで国民参政会参政員を務めた[1]

1953年、死去。享年79。

[編集]

  1. ^ 『四川省志 人物志』下冊によると、1945年(民国34年)に引退としている。

事跡[編集]

  • 四川省地方志編纂委員会編『四川省志 人物志 下冊』四川人民出版社、2001年。ISBN 7220035144 
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 田子渝・劉徳軍『中国近代軍閥史詞典』档案出版社、1989年。ISBN 7-5626-0244-1 
 中華民国の旗 中華民国北京政府
先代
戴戡
四川督軍(代理)
1917年7月 - 12月
次代
劉存厚