司馬徽
司馬徽 | |
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後漢 隠士、人物鑑定家 | |
出生 |
不詳 潁川郡 (現:河南省東南部) |
死去 | 208年 |
字 | 徳操(とくそう) |
別名 | 号:水鏡(すいきょう) |
主君 | 龐徳公 |
司馬 徽(しば き、? - 208年)は中国後漢末期の人。字は徳操(とくそう)。号は水鏡(すいきょう)。人物鑑定家として有名。潁川郡(現在の河南省東南部)の人。
経歴
荊州に移り住み、龐徳公を兄として仕えた。水鏡の号は龐徳公が名付けたものである。なお、諸葛亮を臥龍、龐統を鳳雛と呼んだのも龐徳公であるという。司馬徽は龐統の才能を見出し、徐庶や向朗などを門下生とした。
劉備に「臥龍・鳳雛は諸葛亮と龐統のことだ」と教えたといわれる。
荊州を支配していた劉表には仕えず、隠士として暮らしていた。『世説新語』の注に引く「司馬徽(別)伝」によると「好々(よしよし)」が口癖で、何を言われても「好々」と答えていた。又、友人が自分の子供の死を伝えに来た時にも「好々」と答えたという。司馬徽の妻がそれを咎めると、笑って「お前のいうことも、また好々」と答えたという。劉表に司馬徽の登用を勧めるものがあったが、こうした態度を見て劉表は「世間の人はいい加減なことをいって(司馬徽を持ち上げて)いるが、ただの書生じゃないか」と断ったという。司馬徽は劉表を凡人と思っていたので、政争に巻き込まれないように政治談義に手を出さず、このような態度を取っていたのだという。
中国では、こうした司馬徽の態度から生まれた故事成語に「好好先生」というのがある。定見を持たない、悪と戦う勇気が無いといった悪い意味で使われているという[1]。
劉表死後、劉琮が曹操に降伏すると、曹操に召し出された。曹操は大いに用いようとしたが、間もなく死去した。
現代の三国志系読み物などでは、「水鏡先生」は悉く老人然とした容貌で描かれている。ただし、『演義』の文中には、水鏡の弟子である童子の台詞として「水鏡先生は龐統より5歳年上」という言葉があり、史実上は年齢不詳ながらも、『演義』は司馬徽を老人と見ていないことがわかる。
南漳県に「水鏡荘」と呼ばれる景勝地があり、司馬徽の石像や祠堂が建てられ観光地となっている。中国国家級風景名勝区。