博多人形

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。松茸 (会話 | 投稿記録) による 2012年6月3日 (日) 09:04個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎なかのこ、一類、姓氏起り:  問題が解決していないため複数の問題再貼り付け、編集の日付除去)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

博多人形(はかた にんぎょう)は、福岡県の伝統工芸品の一つ。福岡市博多地区で作られてきた。現在では博多地区外でも多く製作される。

侵略者を懲らしめる鎌倉武士(白水六三郎作)
元寇史料館

歴史

発祥には諸説があり、陶師(すえし)の中ノ子家、博多祇園山笠の小堀流山笠人形の流れを汲む白水家、瓦職人の正木宗七(惣七)の3説が有力とされていたが、現在では学術的研究が進み、1600年代に博多の町で陶師を営んでいた中ノ子家より転業した中ノ子安兵衛・吉兵衛親子と、小堀流山笠人形の流れを汲む白水家との複合的要因が最も有力とされている。「中ノ子」の苗字由来にはこれまで諸説ある。

中ノ子家の歴史は古く、中世瀬戸内海の豪族である越智・河野通継(おち・こうのみちつぐ)の四男・通成(みちなり)の子で、母方の「中ノ子」姓を名乗ったことを祖とする。「中ノ子」は本来「仲子」と書き、「なかのこ」という苗字はそれより以前の800年代より、山口県二俣神社の歴代宮司である「仲子」氏として知ることができる。この宮司系である仲子が越智・河野家に嫁ぎ、その子が人偏の取れた「中ノ子」を名乗ったというのが、現在の通説とされている(山口県大三島大社系図による。)。中ノ子・仲子・中野子・中子・中之子といった、読みが「なかのこ」になる苗字は、一類同属であると古文書に記されている。

1400年代~1500年代の記録は少ないが、1600年(慶長5年)からの記録が、檀家である博多・宗玖寺の過去帳に残されている。それによれば、「初代陶師」として中ノ子長右衛門が下祇園町に住んでいたことが記録されており、陶器等を作っていたものと思われる。大乗寺前町に住んでいた8代陶師中ノ子長右衛門 (安兵衛) が、幕府の規制により長男・9代長右衛門 (長伝) に家業の陶師を継がせ、次男・長四郎(吉兵衛)には土産品向け土人形の制作を行なわせた事が、博多人形の祖である博多素焼人形の起こりである。

その後、安兵衛・吉兵衛親子が制作した土産品向け土人形は広く博多の町に広がり、諸国貿易 (全国流通) も盛んに行なわれるようになり、師弟関係による同業者が増えていった。1821年頃 (文政4年頃) のことである。1890年(明治23年)に、第3回内国勧業博覧会が行なわれ、その際に出品していた博多素焼人形が好評を博し表彰されるが、この表彰状に「博多人形」とだけ記されていたため、これが公に広まり博多人形の誕生となる。よって、博多人形の誕生は1800年代であり約200年の歴史がある。また、中ノ子家の陶器制作までを含めると、約400年の歴史ということができる。1976年に人形の部で伝統的工芸品として通商産業大臣の指定を受ける。中ノ子家直系の人形師は現在、現代博多人形作家の中ノ子富貴子、基高 (親子) 、古形博多人形作家の中ノ子勝美がいる。

他に、中ノ子家には博多人形とは異なる独自の色焼込人形である「中ノ子焼人形」が中ノ子吉三郎の時代より伝わっているという。色焼込人形は、人形が生地の状態(焼く前の状態)においてすべて彩色されており、素焼温度(800度~850度)よりも遥かに高い温度で焼き付けることによって、焼き上がりの状態で完全な発色が完了するものという。年間1本~数本の供給しかなく、非常に価値の高い作品であるという。

正木家は1600年(慶長5年)に正木宗七が黒田藩御用瓦師として、博多の地に移り住んでいる。中ノ子安兵衛・吉兵衛の住む下祇園町とは隣同士の町に住むなど、技術協力があったかのように推測できるが、正木家は瓦土を使用した瓦及び焼物を作っており、その技法は「宗七焼」(惚七焼とも)と呼ばれる一子相伝の技を妙とするため、近似である博多素焼人形との技術協力があったとは考えられない。よって現在では、正木家及び宗七焼は、博多人形に多少の文化的影響力を持っていたと推測されるものの、交流は全く無かったと考えられている。正木家及び一子相伝の宗七焼は、明治6年に没した6代目弘茂によって、途絶えている。現在の博多人形作家の師弟関係の中に、正木家の流れを汲むものは居らず、また正木家において博多素焼人形及び博多人形が焼かれたという記録・作品も無い。

白水家は小堀家の流れを汲む家である。小堀家は京都の細工人形師であり、現在より500年以上前に博多櫛田神社境内に移り住み、山笠人形の制作を代々行っていた。櫛田神社に移り住んでから代々、小堀家は山笠人形の独占制作を行ってきたが、明治維新と共にその制作権も自然消滅し、13代目善之助の時、山笠人形の制作を廃業して貸家業に転業した。

なお、博多祇園山笠で用いる山笠人形は博多人形師が代々制作していたものと思われているが、実際には(少なくとも明治以前では)小堀家のみが独占的に制作を許されたもので、他のものによる制作は許されなかった。その小堀家細工人形の流れを汲むのが初代白水仁作で、白水家直系の人形師は現在、現代博多人形師の白水英章が居る。師弟系譜に見る白水六右衛門とは関係が無い。


なかのこ、一類、姓氏起り

 神代期略上、山津持神三島鎮座、萬物之霊不知一身之願末耐可呼我、三島大祝国作リ、領学民政軍事、世祖神祀至、伊豫周防安藝、瀬戸内海機内の一類氏豪族、三島に集結、閣談議、論し、大山積神を三島に奉じ、小市国起こす。慶神天皇紀、越智呼致命国造始まる。三島宮、御島神を遠土、おち(越智)と解す、越智氏は愛媛面影伊豫陽盛衰記に依れば足利時代、久留島氏の崇拝する所。大領越智宿禰神太夫と言う、越智も招宴食器持ち社参乗興した。(道芝記、新絵撰姓氏録)佐伯直は、(垂仁天皇の子十二代影行天皇、妃、伍十河媛、其の子、稲背入彦皇子)佐伯直、播磨直、播磨國造祖の裔成り、道臣命七世の孫、市邊押盤皇子、(皇裔)帳内佐伯部の仲ノ子、は佐伯氏の裔、相続人で有る。又三河田藩主三宅子爵は元越智姓にして備前に移住し児島高徳、の一族と成り備前三浦氏甲斐源氏三島血族越智氏と成る諸説有るも各三島豪族直の姓解し越智を以て氏と成し(系國)越智を名乗る、光仁期、伊豫國河野土居近在の住人を越智直静は、百の姓の者、百五十八人を越智の養子とし、氏を変え越智氏を名乗らせる、(壇記)三島宮祀る束の位の座居、越智の直、越智大領、総代主、各豪族の領地治める権威の座の首領、宿禰と成る者多し、他にも越智名乗る者、出自脈洛不明の者多し、推古天皇期、(輝国日本記所引)伊豫風土記、元正期、養老三年四月二十二日、大山積神を御島瀬戸浦より同島宮浦に棒還す、(御鎮座本録)天武十三年十月諸氏族姓改める、真人、朝臣、宿禰、忌寸、通師、臣、蓮、稲置、八姓定められた、(日本書記、新選姓氏録)天智朝の甲子の改革諸氏族は新に、大氏小氏、伴造氏に定られた、越智守興、百済救援軍、戦いの最、唐兵に捕虜せられ唐国に到り、(日本霊異紀、今昔物語越智氏族考登)越智守興帰朝し都を建てる。天智期大化二年八月、頼朝諸国に守護地頭を置き幕府を開き幕府初銘々代官職江三郎衛、下向す是代官の始め成り。(御鎮座本録)後鳥羽天皇代文治五年七月十五日、官軍破れ河野道信、奥州平泉に配流せられて一族拝領地没収せられる。連族、土居の河野、中ノ子、一類同族、使用人供に添い平泉へ移り後ち帰国する。後鳥羽期文治五年七月十五日、源頼朝奥羽討伐の起伊豫国御家人衆、三島大祝安時等三十二人を河野通信士の沙汰と成す。(東鏡)河野道信伊豫一国の守護と成る(河野系譜)河野四郎通信士、土器を持しめ(宴の束示す)招宴の毎、食事に用ゆ出族中の珍事とす、越智にも同事有り(東鏡)素焼き鉢土器(土器、素焼、器は神事艶事、毎宴事、器は廃棄、土居出氏には、戦勝結束、縁起を担ぎ自前土器碗製、大祝は権化の艶にて、宴の最の氏権威束を示す作法)他の文献記録有り(土居中ノ子、古口伝、神宴、招宴の席、伝承事、故事石槌祭事、御子神事権威、伝承を含む頭領権威、相続人、筋目を示す艶事)順徳紀、承久三年、鎌倉幕府より大祝を地頭井社の守り附と成し京都の守後任を拝す。(御鎮座本録)越智河野土居中ノ子陣幕紋は角の折敷に三文字是成り(へぎの、おりしきに、さんのじ)後太陰菱釘〆菱に改める、現代に及ぶ、嘉貞元年、安近喜多郡根来城合戦、元弘三年十一月後醍醐天皇期、星岡山戦、讃岐国鳥坂山戦、建武元年十一月、御良親王鎌倉に幽閉される。建武二年二月二十二日、後醍醐天皇伊州凶徒治罰の論旨を祝彦三郎安親に賜諏す、伊豫の裔豪族等は三島(山津持神)を御神と祭り奉じた、河野道継は三島大宮司にして其の子道成り中ノ子は愛媛県越智郡大山積大神を御島に祭り神事を行う。孫女木花開那姫は璃璃杵尊の皇妃となる。其の子彦火火出見尊、鵜葦草葦不合尊、神武天皇、綏靖天皇と続き応神、仁徳、斉明、天智、元明、仁明、一族各天皇廟を奉じ御所を警護に当たる。又斉明天皇期、七年、百済救軍戦して天智天皇三年帰朝し越智大領と成る、天皇百済救軍の為、筑紫に西征の途次御舟伊豫熱田津に泊石湯行宮に座す、(日本書記、天皇、功皇、度々道後湯治へ来る、豪族、等と召宴有り)其の河野越智の流れを汲む幹氏、伊領国の豪族越智河野氏の出にて第四十八代河野通継の長男河野通有(土居中ノ子))は元寇襲来時、海戦においては船師武具、鯨包丁、舟鈎手、舟刀等を、武器にした。(三島神社武具展示室、源義経、縁有、武運を祈り鎧を奉納)八幡太郎源義家は父頼義、母平直方の娘北条氏の祖、安家は平直方の外孫、源頼信の源頼朝で有る。河野家の者、船勝戦時、土器碗にて飯を食す、築山本、別の記録にも有り、同じ事を常に宴席で申す艶事成り(後宇多院弘安四年五月二十一日従三韓蒙古之三大将率数万人襲来著舟志賀鷹能古等海岸、比時道有準先例、議り宇文久の役文久十一年1274年公安の役、公安四年1281年、筑前多ノ津の浜で元軍と戦つた。偽夷先例、海賊退治、蒙県勅令馳向、筑前国、四国中国勢、筑前多ノ津、箱崎津ニ着ク、日本ノ陣オ見渡セハ、上下ニ三里ノ海屋地高、逆茂木乱跋オ昇る、並此用意厳重也、越智大領と成る、この節目に越智河野幹其の四番目の弟河野通成の子で河野通成六郎、筋目裔に繁りに依り氏相続人、大祝宮司神官を努め、中ノ子姓河野道直の後土居の母方の牲)を名乗つた。(河野道直五十七代より築山姓へ改名)厳島、平家物語り、伊豫風土記より、中ノ子出自、(明治四年に至る書、明治四十四年十一月、明治四十五年年七月文学博士三島毅編者織書、大正元年七十九代三島淳雅宮司、文学博士井上頼国監修書)に記される大正元年十二月十五日、三島淳雄編集発行三島大祝家譜資料より(証明書拝す博多中ノ子)河野庄、南土居、字中ノ子、新選姓氏録、仁賢天皇期、厳島平家物語依り、播磨(影行天皇)市邊押磐皇子の相続人、帳内佐伯部仲子、其の子孫に賜はる姓成りと記されて入る、(佐伯家資料)旧越智郡河野庄土居字中ノ子に在所する。厳島志、大元神社、祭神は國常立尊、大山積神相殿佐伯鞍職といふ藝藩通志厳島文書、仁安三年十一月佐伯景弘解に大伴佐伯同姓成りと伝え山王社に配祭せり説は(道芝記、新選姓氏録)右京皇別に佐伯直有り、左京別に佐伯宿禰有り(仁賢天皇紀)五年春二月の篠佐伯造有り佐伯直は景行天皇の裔して、日本武尊が携へ来たまひし東國の夷俘を播磨、安藝、阿波、讃岐、伊豫等の諸國に分置せられたる時其の部曲の長官成りたる一族成り佐伯宿禰は大伴宿禰と同祖にて、道臣命七世の孫、大蓮室屋の後裔成り佐伯造は、市邊押盤皇子の帳内佐伯部仲子の忠節を構し、其の子孫に腸はりたる姓成り、松山市来住町来島廃寺は七世紀古代寺院跡で有る松山平野に奈良時代以前に造営された寺院として八寺院が知られ中ノ子廃寺(松山市教育委員会調査)も其の一つで旧越智郡河野庄土居、現在、松山市南土居字中ノ子に所在する。(現在中ノ子廃寺、氏発生の地には石碑有り)法隆寺式伽藍配置を持つ七世紀中葉以降創建の古代寺院として(出土瓦は法隆寺と同等の型を用い、型傷同じ瓦型を用い、松山の瓦窯で焼成制作、棒弁十弁連華大軒丸瓦、複弁八弁蓮華状軒丸瓦)が国の史跡指定を受けている。石槌山の、神道際司巫子の訃げ、語り部に説き伝え各頭首族帳長に伝える祭り事。長い年月祭事廃棄された多量の土器陶器有り、(伊豫国、巫女の名前とも言われてる)祭事神選言霊伝所跡有り、巨石、山神信仰日崇拝も有り、神道、民衆心の支え後佛教も浸到、念仏、口伝えて信仰唱えられた。河野智眞房は、血縁豪族、影行天皇、宮家裔有り。河野智眞房、豪衆賛同を得て、血族豪族の、筋目繁り立て出家、(佛教、を起こす時宗派、開祖号一偏上人、道朝の三男河野智眞房、四男伊豆房号仙阿上人、五男道定、戒能祖、号聖戒上人)比叡山の勘延井に性空上人社参七日説戒し不殺生戒を授け鹿の生贄を止(一偏上人録記、)伏見期、正鷹元年十二月十六日、一遍上人社参河野通信の孫成り(一遍上人縁記)三島神社蔵、現在も未解読、皇紀時宮家文書多数有り外部者閲覧未公開文書多数有り。六波羅下知状九通、河野家書状物、禁制、感状等三十六通、足利尊氏教書壱通、細川、今治、小松、鎌倉期より徳川期まで数百通有り膨大部採録せずと有り。三島系譜資料編集者、天皇期、元永元年六月十日、越智宿禰貞吉を伊豫国大録に任ず(徐目大成抄)仁明期、承知二年十一月越智直廣成等七人に直姓を改て宿禰を賜う(檀後紀)承建武三年1336年南北争乱起こる暦応二年1339年後醍醐天皇の皇子懐良親王は(南朝)伊豫より九州赴く、正平十四年1359年九州筑後川の戦い有り。正平十九年1364年讃岐の細川勢が伊豫国に浸入し河野氏を攻めつけた(伊豫風土記から、時の朝廷令に依り伊豫の国の行政官成る、村上氏支持の政権倒れて京の政権へ戻れず反体制の悪行に対し、繁い筋目を立て戦に及んだ)、瀬戸内海の悪族(御家役知行田大内郷住人福角清六入道自叙用せざるに付同上下知す、後相対峙する勢力忽那入道と戦に及んだ)其の陣立て、村上総大将、中ノ子雅楽助侍大将、戦に勝利した。後亀山期、天綬四年大山積神社濱殿以下新築成る、瀬戸内海及び、能見島、忽屋島、因島、を本拠とした。村上義弘、水軍の将、海士水軍、海賊頭目勢を加え、能見島に陣屋敷を構え再起を謀り事は大成した。中臣の連氏中臣栄寿唱え藤原一族春日大社を奉じた、藤原定家の日記藤原宮御宇持統天皇。檜前大内陵に合葬す、綾戸更に重充せず、大宝三年十二月二十六日と有る(明月記)(後令泉記))藤原鎌足より繋がる村上祖、中臣藤原義弘、同族血縁有りて三島大祝官職と成る。源頼朝征蝦大将軍宣下せらる、後鳥羽期建久三年七月、源頼朝、中臣の皇子とも村上一族、縁者、鎌倉幕府より始めて伊豫国へ地頭を置く三十九人下着(御鎮座本録)海の侍として海軍一族衆の首領、村上水軍旗を起し頭領勢い力増し大成する、近在の島を勢力権と治め味方軍勢増え続ける。墨付、行政勅書有り、内海勢力を力押し、接岸権、航路権、繋い権、旗印水先案内権、朝廷墨付き有りて税を集めた、内外海航路北前舟航路権、村上氏は悪族海賊の利権を一族水軍は敵軍誠討し権利を取得、義弘大領と成つた。三島大祝職と成り(天鳥舟神、武布都神、豊布都神、石筒之神を藤原氏春日社祭り葦原中国神を中臣之蓮(なかとみのむらじ)天児屋命神(あめのこやねのみこと)を祭り太ト(ふとまに、易を行い宮廷祭事を司る氏族)中臣氏族は藤原の鎌足、村上氏の祖で八幡太郎こと源義家で父は源頼義、母は平直方の娘、源義家は直方北条氏祖にて外孫、鎌倉に幕府を開いた頼朝は頼義、義家は頼義の長男頼信の直系の子孫で有る。(今昔物語本朝)(大祝職神官、村上義弘の墓所は、大三島神社社領地に在所する)正平二十三年六月二十七日(1368)六月能島の村上義弘、今岡左衛門通任、安藝呉の二神、能美島久枝、正岡、忽那島の畑見、屋代島中ノ子一類、宇野左京亮、池田兵庫亮、等と議して伊豫に入国能わず、河野通直を九州の懐良親王の所へ送り届ようと屋代島に本拠を置く、豪族海士、中ノ子左衛門太夫藤重を頼り(中ノ子は戦舟で)先松崎の敵を討ち払いて直ぐに福角え手配有り危と各族兵船三十隻に乗りて屋代島をこぎ出す、中ノ子雅楽助を頼り(河野十八家内親)村上、今岡、安藝の二神、南方、能美島の久枝、正岡、忽那島の畑見、屋代島の中ノ子一類、宇野左京亮、池田庫亮、屋代島の和田へ河野通直を迎えに遣わされ、後九州筑前宗像に着く、(縁者導き有り)正平二三年九州筑前宗像へ着く無事懐良のもとへ送り届ける届ける事に成功した。後河野讃岐の守通直は伊豫に復帰する。正平二十三年1368年懐良親王を奉じ東上の途につきても細川、大内氏に阻まれ豊前に退いた。河野通直中ノ子藤重らと共に、本国討ちに相従う人々の中には、屋代島の中ノ子一類同族有り後村上期正平二十三年七月伍日仲子伊記藤原伊智、中ノ子一族と同名没期日、文献に脈絡有り(注訳)仲子氏、(なかのこ)山口県徳山、錦帯橋に清水流れ、錦川の源流である向道湖を望み、周防大向二保神社の仲子伊記、藤原伊智、山口県周防国都濃郡大向村字二俣に所在する。播磨国後伊豆へ流された、影行天皇、市邊押盤皇子、帳内佐伯部仲子裔成り(延喜式)成務天皇の御代に始まり、天平元年遷宮文徳実録に天安二年三月在周防二俣神預官社又徳山三大実録、文徳実録より、貞観九年八月十牛六日周防国正五位上出雲神城神受従四位下従う五位上剣神二俣神正長元年二月参日大内多々良朝臣弘武公より神領御寄附証書有り、天正十七年八月九日内藤興三右衛門児玉四郎衛門他弐名より田地御寄進の書有り、錦川接ス従口ハ二俣形ノ山ニシテ東ニ金峯山トテ高サ二十余町ノ高山有其ノ頂キ一二三ノ嶽トナル本社ヨリ降シテ日出山ト伝フ此一ノ山際ニ麓ノ明神有。(後漢中平六年西暦189年に創建された式内二俣神社、帯刀許され、宮司を代々努める。仲子勘之太夫慶安二年村人と永荒地の開墾願い出て二俣神社領地と成る、歴代の宮司の御神絵馬、霊礼が保存されている。延期式は額装され、仲子氏藤原氏も名乗る)成務天皇期、後漢中平六年より代々記載されて入る藤原正盛から十四代藤原通誓富足根と続く、毛利氏寄贈の家紋入倉が神社境内に存在する、家紋は八角鈎紋、(昭和に至り山口県徳山より、仲子隆氏は衆議院議員、参議院議員を努めた、人偏付く仲子氏、は神官努めた者多く人偏付かない中子氏も有る)一族一類衆国書、一族者同族、周防、伊豫、安藝、(勘貫録)中ノ子三郎左衛門尉、中ノ子孫六中ノ子三郎等の名前も見ゆ。弘和元年1381年細川河野両家和睦する、応永十八年1411年、中ノ子民部入道唱通は沓屋昌弘と共に注進案として、牟礼阿屋呼阿弥寺の敷地免田に対する諸役免除を牟礼令代官を通し官唱舎人、稗田阿礼に伝えている。耕作社領地分権の為(広島県山県郡史研究)大内義隆、甘崎城主村上出雲守道康を三島地頭、神主とし外様第一とす、風貌相応しく(容止塙く岸しくして音辞俊れ明成り)(みことばすぐれ)懐風藻、(鎮座本録)正親町元永元年二月十二日、小早川隆影元春と共に延薩先に至り役任す後筑前に移封す村上党共に九州に移る。(本録)後桃園期、安永三年六月一日久留島森藩守信濃守社参、三島大祝亭に於て一族招聘宴有り、仁孝期文政十二年三月、豊後森藩主久留島氏の懇願に依り大山紙神社勤務式宿望執行。筑前国、甲良山に、大祝位名許された氏有り、(三島行事記録)松山藩主久松定直社領五十石を寄進す、田五反畑壱町五反を大祝職田とす。霊元紀、貞亭三年、戦国時代中ノ子昌通は大内氏にも仕えた。(注進案)三島大祝家譜資料越智分派系図より河野氏一族一類、越智河野四十九代道継の棒長男道有りの四番目の弟通成より母方の姓に戻つた。(河野氏築山氏名乗る)その後越智河野源系相続幹筋、道忠、道茂、道種、(道任は山城淀藩主、)(道住は上島甘崎城主)(道宣、道箭宣伊豫の守天徳寺殿)(道貞、稲葉組豊後臼杵藩藩主)(檀高、一柳祖、播磨小野藩主)(道定、来島藩豊後森藩主)南朝の忠臣河野、土居、得能、蒼山城淀藩主稲葉子爵、豊後臼杵藩主稲葉子爵、安房館山藩主稲葉子爵、豊後森藩主久瑠島子爵、播磨小野藩主、一柳子爵、伊豫小松藩主一柳子爵、他に伊藤、三島、河野、黒川男爵、諸氏有り。有栖川宮威仁親王殿下大山積神社参拝の際成ならせらる。随行には仁鎧棒山野津の諸附有り、続鑑大動位、伊藤公爵大山積神社へ参拝して来泊される。随行には村田陸軍少将古谷秘書菅小山総監府、等、明治四十五年七月、東宮待講従三位文学博士三島毅選筆、に至れり一族一類、三島蔵一類衆国書、又松浦藩唐津の地にも、元寇の功績、瀬戸内海士の武勇聞こえ禄高付の招聘されし侍海士、松浦藩へ招聘、中野子氏(なかのこ)召抱えられ。船奉行、城代家老としても努めた、其の子孫は自衛隊、基地指令、その後、佐賀県唐津市議会議員を務めた。其の頃別れた同祖土居土佐の守道正は島根の地に移り豪農として栄えた。屋代島の中ノ子は弘安の戦にて見聞した、博多の地に在居を構えた。慶長の初中ノ子氏は那大津、博多に来る(宗玖寺過去帳には寺の起こりから記載されており寛永元年1624年没長衛門の子から記載されている)、初代陶師長衛門は社家下祇園町に住し代々長衛門と称し陶器等を制作、大乗寺前町住む八代中ノ子長衛門(安兵衛)は製陶品舟で商い瀬戸内海長崎方面での商売を盛んに行い、交易の先々での人々交流が有り、実際に見聞した情報知識を取り入れ、いち早く土人形に着眼し、九代長衛門(長伝)に家業の製陶業を継がせ(家業は長男しか継ぐ事が出来ず次男以下は職を変えるか離れた所に居を移し同職を行う)次男長四郎(吉兵衛)には土人形造りをさせる為文化五年1808年安兵衛の指導により、下祇園町より分家させて土俗人形作りを始める、吉兵衛は博多浜口町の木彫師牧牛軒中村利治に就いて彫刻を学ぶ。中ノ子焼き沿革考察、中ノ子吉兵衛は彫刻を学ぶ門弟である、櫛孫と称する博多の根付けの名人松下音満、筑前米の改良、素弾正縄の考案者として知られ、彫刻でも有名な中村利満と共に彫塑を学び吉兵衛奮起、志を得て益々業に励み、初めは素朴な土人形で、陶磁器原料は、人形原料には適せず、日夜研究し廣く山野を跋歩して、探検探求の末、筑紫郡麦野の山中に良質の粘土を発見しこれを用いた。(同じ頃水城地区に高取焼き原料と同等の楽焼き白土おも発見した)文政四年1821年、中ノ子安兵、吉兵衛親子は、中ノ子家創出の土俗素焼人形を売り出した、又福岡藩、藩庁に出願し、許可を得て肥後の大蔵や、甚吉、亀吉を雇用したり、三月雛人形、五月兜人形など節句人形を大衆的庶民的人形として売り出し開発拡張を図り、白水六衛門他多数の弟子を養成し其の弟子は次々と技術を修得し人形師も数多くなつていつた。中ノ子長四郎(吉兵衛)に四男有り、長男周平(後に長四郎)次男安八、三男(文吉)四男吉三郎(文吉)四男長六(清兵衛)なり、吉三郎は幼少の頃、叔父長衛門(長伝)に育てられ陶器の修行し画法を村田東圃に師事、後に父吉兵衛の許に帰り人形を制作する。師の教えに従い(眞を写すを目的とする)の言を心がけた、明治(元年)1868年役者者(役者人形、歌舞伎人形)を始めて造る、明治七年1874年人形同業者組合結成される。中ノ子吉三郎初代組合長になる。吉三郎は二カ年かけて生き人形を十三体作り(五国眞法)と銘々する、明治十年1877年第一回内国官業博覧会が東京にて行われ中ノ子吉三郎、白水六右衛門、松尾文左右衛門らが出品した、明治二十三年1890年第三回内国博覧会に於いて博多素焼き人形が公称博多人形となつた、明治二十八年1895年博多素焼き人形組合が結成され中ノ子吉三郎、組合長に成る。人形師達の研究グループ(温故会)が結成され意欲的に活動した、明治三十年1897年福岡市物産十種品評会に出品中ノ子吉三郎は壱当賞を取る、順次展覧会に出品する。明治三十三年1900年秋季、陸軍特別大演習が九州で行われ久留米大本営において作品展覧(大正天皇期)皇太子殿下は中ノ子吉三郎の作品をお買い上げ栄光を受け賜つた。明治三十四年1901年大日本窯業協会協進会に三等賞福岡物産工芸品評会壱等賞明治三十六年と受賞報償を受ける、明治三十七年1904年福岡工芸品評会審査員と成り名誉賞を受ける仏領印度支那(ハノイ)にて東洋農耕技術博覧会にて中ノ子吉三郎銅賞米国世界博覧会にも出品。 筑前の磁器、福岡藩須恵焼の創始歴、江戸時代、宝暦初年1751年から天明四年1784年三十四年間、福岡藩寺社奉行所の記録係であつた進藤安平常興は福岡藩の産業振興を考慮し、磁器窯の起業を藩として決定する、福岡藩官業製陶所始まり、宝暦八年1759年糟屋郡須恵村で磁器原料の白土発見西皿山(早良高取焼)にて焼成試験成績上がらず断念肥前国佐賀領南河原山の陶家にて焼成試験成功する。宝暦十四年1764年進藤安平は磁器窯の築造を須恵に進め着手する、明和四年1767年須恵皿山窯の構築肥前国陶工を雇い入れ事業を広げる。福岡藩より御仕立焼物所に指定され御用焼き物として江戸表からの注文も受ける天明四年1784年進藤安平の後進藤平尚央は初代須恵皿山奉行を命じられる、文政一二年江戸期民生窯福岡藩十一代黒田長薄は殖産興業の重点項目の一つ窯業の振興をはかつた須恵焼再興。弘化四年1847年博多中島町南新地に反射炉を建設し福岡藩官業精錬所が設置され藩営洋式工業を起こし科学的製陶の研究が開始された、安政三年より安政七年糟屋郡須恵、那珂川郡野間で製陶を始め藩より京都の陶工佐々木興三を招き陶業を起こす源土は福岡柳河内に得る高取焼の陶工、彫刻松下音満、人形彫刻陶師中ノ子吉兵衛、絵師斉藤秋圃村田秋江などにより行なわれ原石の分析化学的解明も取り入れられた、中ノ子吉兵衛作白磁の人形床凡に腰掛けて居る若武者姿の(五月の兜人形)高さ三十五が中ノ子家に遺つている、吉兵衛は須恵皿山の経験を伝授した安政七年1860年江戸民窯期が終り、第二期須恵皿山奉行開設される、須恵皿山再興に山田藤作を奉行に佐藤新造を吟味役とし須恵焼き史の中でも最大の設備とする。万延元年1860年京都より陶工澤田舜山、絵師芳造、尾張瀬戸より、白磁の老練吉田岸太郎絵師佐吉肥前よりは数百余の陶工絵師を迎え水車四十余台を施置し皿山切手等の発行した、福岡藩平野国臣は須恵焼販売方役人を務めた、元治元年1864年より慶応年間須恵焼製造する吉三郎も力役(ちからしろ)出任命ぜられる(吉三郎、沖の島の村上氏頼り中ノ子氏名乗り海に祈る行を一年数か月、水行を成した)原型彫刻技術を担当した、須恵焼、明治三年1870年藩政廃止に依り一時廃止となる。明治民間に払い下げられる。 日本無双金錆焼き株式を設立、社長玉ノ井 友五郎、番頭、大隈朝次朗、図工斉藤秋團、村田東圃、轆轤、春山宗山、彫刻、中ノ子吉三郎、長くは続かず中ノ子は博多下祇園町、吉三郎屋敷邸内工房内に窯を構築、須恵からの技術者と薬掛け色焼き付け技術を研究した。金錆焼き、錆焼き、柚肌錆地焼き、渋紙剥、覇台焼き、明治三十四年1901年九州日報新聞三月十四日木曜日に記載された記事として(素焼きにては進化の時世に伴はざるを慨し試験窯を新築し薬掛け焼き付けの発明に苦心無し、居れば遠からず空前の発明を発表するなるべし)書いてあるが如く、これが中ノ子焼き独創的技法、堅牢で色の剥げ落ちない製品色焼付漆仕上げ、中ノ子焼きの創始である、吉三郎の長男市兵衛は、明治十年1877年生まれで考古学江藤燈絵、上田鉄耕、佛彫刻高田又四郎、高取焼きを高取英一に学び、其の奥義を極め金錆焼き渋紙剥を発明陶芸品に覇山の銘がある、昭和二十一年1964年福岡市東油山に戦争の為、疎開していた中ノ子タミ(妹の所に)身を寄せた市兵衛はタミに先祖の事柄を言す、色着込、家系、一族のこと総ての言語り妹タミに一切を託して烏帽子折れを歌い別を告げた、中ノ子タミは幼少の頃より父吉三郎の膝元にあつて自ら好んで人形作りの道に入り父から本格的技術、指導伝受人形一筋に生き抜いた女性で有る素焼き人形高質化と色の焼き込み技術を市兵衛、タミ互に伝授された。大正三年1914年中ノ子タミは京都帝国大学医学部外科教授中山森彦博士の紹介により、九州帝国大学、桜井恒治郎博士指導の下二年間、骨相学人体解剖の講義を受ける、この時学んだ経験はその後の人形制作銅像原型制作じ大いに役にたつた。当時博多千代町石橋鋳造所の依頼で、六尺八尺数体の銅像原型を次々に制作、人々の注目を集めた、昭和四年1929年博多人形師の中ノ子六助の家に同居する、福岡市住吉横田町昭和十年1935年、六助の嫁(母里家依り中ノ子へ嫁ぐ、妻ナオ)其の後、長男重男次男喜三長女恵美子次女富基子達と、博多人形制作に力を合わせ、硬質色焼き込み技術向上に努力する。昭和二十一年1946年昭和1946年タミの下で、市兵衛棒亡くなる、市兵、高取焼き研究する。勝美、上野焼き研究する現在博多春日で古形博多人形を製作。 昭和三十五年1960年福岡県嘉穂郡嘉穂町大隈の麟翁寺母里但馬守太兵友信公像を奉納する。昭和三十六年1961年福岡市東公園に、建立の日官佐野上人原型を造る、制作当時中ノ子人形制作所敷地内にて石橋鋳造所円形レリーフ鋳造製作、昭和三十八年1963年福岡県浮羽郡浮羽町吉井本佛寺に、日官上人胸像を造る。西公園光雲神社境内、母里但馬守友信公銅像、高山にて鋳造、(母里嘉道氏は天台宗僧と成る)原型は中ノ子タミ、昭和四十一年1966年博多人形師として初めて、福岡県指定無形文化財保持者に、認定される。中ノ子タミの他、余名が福岡県文化功労者としても表彰される、中ノ子タミは油山で御弊を切り片江の地に遷幣これを持ちて住居を移し、大日如来に供物を捧げ終了後祭事器鉢は埋め土地に捧げた。祭神事伝も伝える、御神光隅々清め一族繁栄する神事。参考文献、河野野越智譜系譜三島神社蔵、 伊豫越智親王世系、伊豫温故録所裁、伊豫漫遊紀、道後得能道義所蔵、伯家記録、築山本、 梅原猛、堀内末男、飛鳥、日本史佐々木高明、伊豫風土記、 厳島平家物語、古代王権の展開、集英社、加那王朝、周防国屋代島盛勢記、長尾神社、長尾氏談、三島塩包氏談、三島大祝家譜資料(御鎮座本録) 三島神社神官、楠園氏談、厳島神社平家物語資料、松山市教育委員会調査資料、徳山三代実録(勘貫録)二俣神社、仲子登氏談、中ノ子家記録口伝、広嶋県立古文書館蔵書、山口県立古文書館蔵書、三島蔵一類衆国書、佛徳山貫法寺、宮浦大通寺過去帳、続考察、

世界人類風俗人形

博多人形は、1890年(明治23年)の第3回内国勧業博覧会と1900年(明治33年)のパリ万国博覧会に出品され、その名は国内のみならず、海外でもたいへん話題となった。現在、東京大学総合研究博物館には、パリ万博で話題を集めた博多人形の技法を用いた「世界人類風俗人形」が収蔵されている。これは、1910年(明治43年)から1913年(大正2年)にかけて製作されたもので、かつては開発者である井上清助の名を付して「井上式地歴標本」とよばれていた。井上は、東京帝国大学の人類学教授坪井正五郎松村瞭などの当時の第一級の学者を監修者に仰ぎ、服飾歴史民族の差異を学ぶ人類学民俗学などの教材として人形を開発した。同種のものとしては、「日本帝国人種模型」がある。

「世界人類風俗人形」は、きわめて彩色豊かに精緻につくられており、当時の売価は1体あたり1円50銭ほどであったという。

井上清助には、中ノ子家より中ノ子吉兵衛の孫、中ノ子キクが嫁入りしており、この際に中ノ子家から多くの人形型や技法が井上清助に渡った。

製法

博多人形は、素焼き土人形である。古い時代の博多人形は、以下の工程である。

  1. 粘土で原型を作り、原型を乾燥させる (場合によっては焼成する)
  2. 乾燥した粘土を、板状にした柔らかい粘土で覆い、型を取る
  3. 型の粘土を焼成する
  4. 焼成した粘土型に柔らかい粘土を押し込み、複製を作る (人形内部は中空)
  5. 複製を焼成する
  6. 貝殻を細かく砕いて作った胡粉の中に漬ける
  7. 彩色し、完成

一方、現代の博多人形は、以下の工程である。

  1. 粘土で原型を作る
  2. 生乾きの状態の原型に石膏を掛け、石膏型を取る
  3. 石膏型に粘土を押し込み、複製を作る (人形内部は中空)
  4. 複製を焼成する
  5. 胡粉、または化学塗料にて白く着色し、その後、彩色をして完成。

上記5の中で、化学塗料を使う工程は本来禁止されていたが、昭和初期に主に輸出用として人形を作り始めた際、大量生産をする過程でどうしても胡粉彩色が不可能になり、工程として許可された経緯がある。現在では主に、数百円 - 数万円程度の博多人形には化学塗料が、数万円 - 数十万円の博多人形には胡粉彩色が行われているが、伝統を守るという意味では、胡粉彩色の博多人形こそ本来の形と言える。

師弟関係

博多人形は前述の通り、直系としての中ノ子家、及び白水家の2つから起こっており、その他に師匠を持たない傍系がある。中ノ子家は初代陶師中ノ子長右衛門を祖として現在14代目 (基高氏) だが、博多人形の起こり (8代陶師長右衛門 = 安兵衛) を祖として6代目である。白水家は初代白水仁作を祖として現在7代目 (英章氏) である。

なお、人形師系譜を見ると10代陶師長四郎(吉兵衛)の弟子に白水六右衛門という名を見るが、これは中ノ子家の弟子であり、ここに記している小堀流細工人形の流れを汲む白水家とは関係がない。

関連項目


外部リンク