千葉親胤

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千葉親胤
千葉親胤(久保神社蔵)
時代 戦国時代
生誕 天文10年9月15日1541年10月4日
死没 弘治3年8月7日1557年8月30日
改名 民部卿丸(幼名)、親胤
氏族 千葉氏
父母 父:千葉利胤もしくは千葉昌胤
尾崎殿
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千葉 親胤(ちば ちかたね)は、下総戦国大名で、千葉氏の第26代当主。眼阿弥[1]

第25代当主・千葉利胤の嫡男とする説と、第24代当主千葉昌胤の四男(利胤の弟)で、利胤の死去時に他の兄弟が他家を継いでいたために千葉氏に残っていた親胤が嫡子の扱いを受けて家督を継いだとする説がある。 妻は尾崎殿。

概略

1547年、父の死去により跡を継ぐ。しかし幼少のため、実権は親後北条氏の立場にあった家臣の原胤清胤貞父子に掌握された。そして1555年に元服を行うことになったが、同年10月に正木時茂が千葉に攻め込んだために慣例となっていた11月望日に開く事が出来ず、同年12月23日に行われている(『千学集抄』)。

家臣の原胤清胤貞父子の専横に不満を抱いた親胤は反後北条氏の立場に立ち、同じく反後北条氏の立場にあった古河公方足利晴氏と手を結んだ。しかしそのために北条氏康の侵攻を受けて捕らえられ、家督を叔父(あるいは兄)の海上胤富に譲渡させられた上で幽閉される。そして1557年、暗殺されてしまった。享年17。

暗殺犯は一般的には北条氏康と言われているが、近年では原胤貞あるいは同族で胤清と権勢を競っていた原親幹が氏康の内諾を得た上で暗殺したものと言われている。

佐倉市の海隣寺にある海隣寺中世石塔群の石塔には刻まれた銘文から親胤の菩提を弔ったものも含まれる[1]。また、香取市の久保神社には江戸時代初期の千葉氏当主・千葉定胤(胤富の曾孫で零落して旧臣の家に寄宿していた)が描いたとされる親胤像が伝えられているが、その背景には親胤の怨霊を恐れたからとする説がある[2]

脚注

  1. ^ a b 佐倉市の文化財-史跡(2)「墓・碑 など」”. 佐倉市. 2020年3月15日閲覧。
  2. ^ 角田𠮷信「香取市久保・久保神社「千葉親胤御影」について―作者・江戸時代初期の千葉定胤(千葉氏当主)―」(初出:『香取民衆史』10号(2007年)/所収:石渡洋平 編著『旧国中世重要論文集成 下総国』(戎光祥出版、2019年) ISBN 978-4-86403-313-8 P106-128.)

外部リンク