医師招請事件

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医師招請事件(いししょうせいじけん)は、11世紀の日本と高麗との外交事件

概要

朝野群載』によれば承暦3年(1079年)11月、高麗文宗大宰府に書状を送った。この書状は高麗の外交部署、礼賓省によるもので、「王則貞に預けて日本に届けさせる」と記述され、「王は数年前から風疾(中風)を患っているため、名医を送ってもらいたい。治療に効があれば褒賞を与える。とりあえず、錦と麝香などを送り、信頼の象徴としたい」との内容を盛り込んでいる。書状は翌4年2月に京都に届けられ、4月の朝議で検討された。

当初は派遣する方向で話が進み、当代一の名医丹波雅忠の名が挙がったが、これほどの人材を失うことはできないと、その子忠康か、雅忠に次ぐ惟宗俊通を送ることとなった。しかし、高麗書状の文面が、皇帝から服属国への書式で書かれていたことが問題になった。閏8月には、もし治療効果がなければ国の恥ではないかとの意見が出て、『続古事談』によれば源経信の「高麗王が病死しても、日本には何の問題もない」との意見で大勢が決まったという。これは実際には源俊実の発言である。

断りの返信は大江匡房が起草し、大宰府より高麗へ送られた。

この件に関して、朝鮮側の史書『高麗史』『高麗史節要』などには記録はない。

参考文献

『新日本古典文学大系41 古事談 続古事談』、岩波書店、2005年