丹波雅忠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
丹波雅忠
丹波雅忠(菊池容斎『前賢故実』)
時代 平安時代中期 - 後期
生誕 治安元年(1021年
死没 寛治2年2月18日1088年3月13日
別名 日本扁鵲
官位 正四位下主税頭
主君 後一条天皇後朱雀天皇後冷泉天皇後三条天皇白河天皇
氏族 丹波氏
父母 父:丹波忠明
重康
養子:忠康
テンプレートを表示

丹波 雅忠(たんば の まさただ)は、平安時代中期から後期にかけての貴族医師医博士丹波康頼の曽孫。名医と謳われた典薬頭丹波忠明の長男。官位正四位下主税頭

経歴[編集]

医得業生から長元7年(1034年)に医道課試に及第し、長元8年(1035年権医博士に任ぜられる。

後朱雀朝から後冷泉朝前期にかけて、医博士を務めながら、長元9年(1036年近江掾、長暦4年(1040年備後介永承2年(1047年丹波介と地方官も兼任した。永承7年(1052年後冷泉天皇の病に対して薬による治療を行い、従四位下侍医に叙任される。天喜5年(1057年)典薬頭・右衛門佐に補任。関白藤原頼通の病を快癒させたことから、その推挙を受けて康平2年(1059年施薬院使に任ぜられた。白河朝承保4年(1077年)までに正四位下主税頭に叙任されている。

医師としての名声は日本国外へも伝わり、日本扁鵲とも呼ばれたという。承暦4年(1080年)には高麗王・文宗が悪瘡を病んだことから、大宰府を通じて高麗に雅忠を招聘しようとしたが、高麗側の儀礼に不十分な点があることを理由として、朝廷は派遣を断っている(医師招請事件)。

寛治2年(1088年)2月18日卒去。享年68。最終官位は主税頭正四位下兼侍医丹波権守。

著作[編集]

  • 『医略抄』…曾祖父・康頼の『医心方』を抄録。
  • 『医心方拾遺』

官歴[編集]

系譜[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b 『左経記』
  2. ^ 『範国記』
  3. ^ a b c d e f 『大間成文抄』5
  4. ^ 『春記』
  5. ^ 『典薬頭補任』
  6. ^ 『大日本史』
  7. ^ 『除目申文之抄』
  8. ^ 『中右記』

参考文献[編集]

  • 大日本史料』3の1、寛治2年2月18日条
  • 十訓抄』(黒板勝美編『新訂増補国史大系』、第18巻所収)
  • 百錬抄』(黒板勝美編『新訂増補国史大系』、第11巻所収)
  • 朝野群載』(黒板勝美編『新訂増補国史大系』、第29上巻所収)
  • 宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年
  • 宮崎康充編『国司補任 第四 第五』続群書類従完成会、1990年