北牧野古墳群

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座標: 北緯35度29分33.9秒 東経136度02分17.3秒 / 北緯35.492750度 東経136.038139度 / 35.492750; 136.038139

北牧野 古墳群の位置(滋賀県内)
北牧野 古墳群
北牧野
古墳群
位置

北牧野古墳群(きたまきのこふんぐん)は滋賀県高島市マキノ町牧野にある古墳時代後期の古墳群である。

概要[編集]

斧研川の右岸に広がって存在している。1968年(昭和43年)に行われた同志社大学考古学研究室による分布調査では、計96基の古墳が確認された。

出土品[編集]

2000年(平成12年)には、北牧野2号墳・3号墳の発掘調査と周辺の古墳12基の分布調査が行われた。

この調査で確認できた古墳は、全て横穴式石室を主体にもつ円墳と推定されている。

2号墳は直径約15メートル、墳丘の北側には周溝跡のくぼみが一部残り、南に開口部をもつ右片袖の横穴式石室で、6世紀後半と考えられている。

出土遺物須恵器の坏、脚部を打ち欠いた高坏とその蓋、そのほか鉄製刀子鉄鏃などの鉄器類が見つかった。

装飾品では銀製耳環、腕か足の飾りに使われたとみられるガラス小玉が出土している。

このほか、玄室の奥壁寄りの場所から、滋賀県では2例目となる金銅製単龍環頭大刀が発見された。このような装飾付大刀は畿内の政権から配布されたものとみられ、その背景には、古墳群と接する製鉄遺跡の存在が指摘されている。

3号墳は直径約17メートル、墳丘の西側を中心に周囲の約2分の1にわたって周溝跡が残っている。

埋葬主体部は南に開口部をもつ、6世紀後半の右片袖の横穴式石室で、出土遺物は土師器、須恵器の坏・坏蓋・高坏・短頸壺・「𤭯(はそう)」・壺、鉄器類、ガラス小玉、耳環、石製の三輪玉などで、三輪玉は大刀の装飾に用いられることから、本来は3号墳にも装飾付大刀が埋葬されていた可能性がある[1]

北牧野製鉄遺跡との関連性[編集]

古墳群の北側(現在のマキノ高原マキノ高原スキー場周辺)には、古代の製鉄所跡と考えられている北牧野製鉄遺跡群(北牧野A・B・C・D・E遺跡)が隣接しているほか、木炭を生産した炭窯跡が点在している。

そのため、古墳群一帯は、古代の製鉄事業で栄えた一大コンビナートであった可能性が考えられている[1]

脚注[編集]

  1. ^ a b 史跡説明板

参考文献[編集]

(記事執筆に使用した文献)

  • 史跡説明板
  • 『斧研川荒廃砂防事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書:北牧野古墳群』滋賀県教育委員会 2003

関連項目[編集]

  • 鴨稲荷山古墳 - 6世紀前半の首長墓(前方後円墳)。畿内特有の家形石棺、朝鮮半島の影響を強く受けた豪華副葬品を有する。
  • 平ヶ崎王塚古墳 - 田中王塚古墳と墳丘規模・墳形・築造方法等に共通性が認められる。
  • 田中王塚古墳 (高島市安曇川町田中) - 安曇陵墓参考地。5世紀後半の首長墓で、彦主人王の墓と推定される。
  • 熊野本遺跡 - 古代高島の弥生時代から古墳時代にかけての首長墓系譜を考える上で重要な古墳群。
  • 北牧野製鉄遺跡 - 古代の製鉄遺跡群。北牧野古墳群との関連性が指摘される。
  • 上御殿遺跡 - 縄文時代から室町時代の遺跡。日本国内初の双環柄頭短剣(中国内モンゴルに分布するオルドス式銅剣に似ている)の鋳型が出土した。
  • 東谷遺跡 - 古墳時代後期から製鉄が行われていた可能性がある遺跡。
  • 下五反田遺跡 - 3世紀から11世紀にかけての遺跡だが、中心を成すのは5世紀中葉の遺跡である。出土品から渡来人との交流が見られる。
  • 南市東遺跡 - 5世紀後半頃の遺跡。カマドや韓式土器など、渡来人と交流があったことをうかがわせる遺跡である。
  • 日置前遺跡 - 縄文時代から鎌倉時代までの複合遺跡。高島郡の郡衙跡と思われる遺跡が見つかっている。

外部リンク[編集]