劉馥
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劉馥 | |
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揚州刺史 | |
出生 |
生年不詳 豫州沛国相県 |
死去 | 建安13年(208年) |
拼音 | Liú Fù(りゅ・うふく) |
字 | 元頴 |
主君 | 曹操 |
劉 馥(りゅう ふく ? - 208年)は、中国の後漢時代末期の政治家。字は元穎。豫州沛国相県の人。劉靖(字は文恭)の父。劉熙・劉弘(字は叔和、晋の荊州刺史)の祖父。
事跡
戦乱を避け揚州に避難していたが、建安年間の初めに、袁術の部将である戚寄・秦翊を説き伏せ、共に曹操に帰順し、曹操を大いに喜ばせた。建安5年(200年)頃、揚州刺史の厳象が廬江太守の李術に殺害される事件が起き、さらにその隙を衝いて、廬江の梅乾・雷緒・陳蘭らが数万の軍勢で跳梁した。曹操は袁紹と対峙していたため、自ら討伐に向かえなかったが、劉馥ならその任に堪えられるとみなし、後任の揚州刺史として派遣した。
劉馥は、単身で合肥に乗り込んでここに政庁を設置し、雷緒たちを帰服させた。数年もすると仁政と教化の効果が現れ、揚州の政治は安定し、他の地方の人民までが劉馥を頼って集まってくるほどであった。さらに屯田・灌漑事業を推進して良好な結果を残し、財政的に余裕も出るようになった。
建安13年(208年)、劉馥は死去した。劉馥が築いた堤防や蓄積した物資は、孫権の合肥攻撃の際に、これを撃退する上で大いに貢献した。
物語中の劉馥
小説『三国志演義』では、揚州刺史としての功績が言及されている。しかし赤壁の戦いに従軍した際に、曹操の詩を不吉と批判したため、酔っていた曹操の不興を買って殺害される。酔いから覚めた曹操は、自らの行為を泣きながら後悔し、三公の礼をもって手厚く葬るよう、子の劉熙に劉馥の遺体を引き渡している。
ただし劉熙は、史実では劉靖の子、すなわち劉馥の孫にあたる人物であり、これは『演義』作者の脚色上の誤りと思われる。