コンテンツにスキップ

劉馥

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。EmausBot (会話 | 投稿記録) による 2012年3月24日 (土) 19:13個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (r2.7.2+) (ロボットによる 変更: en:Liu Fu (Yuanying))であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

劉馥

揚州刺史
出生 生年不詳
豫州沛国相県
死去 建安13年(208年
拼音 Liú Fù(りゅ・うふく)
元頴
主君 曹操
テンプレートを表示

劉 馥(りゅう ふく ? - 208年)は、中国後漢時代末期の政治家。字は元穎豫州沛国相県の人。劉靖(字は文恭)の父。劉熙・劉弘(字は叔和荊州刺史)の祖父。

事跡

戦乱を避け揚州に避難していたが、建安年間の初めに、袁術の部将である戚寄秦翊を説き伏せ、共に曹操に帰順し、曹操を大いに喜ばせた。建安5年(200年)頃、揚州刺史の厳象が廬江太守李術に殺害される事件が起き、さらにその隙を衝いて、廬江の梅乾雷緒陳蘭らが数万の軍勢で跳梁した。曹操は袁紹と対峙していたため、自ら討伐に向かえなかったが、劉馥ならその任に堪えられるとみなし、後任の揚州刺史として派遣した。

劉馥は、単身で合肥に乗り込んでここに政庁を設置し、雷緒たちを帰服させた。数年もすると仁政と教化の効果が現れ、揚州の政治は安定し、他の地方の人民までが劉馥を頼って集まってくるほどであった。さらに屯田・灌漑事業を推進して良好な結果を残し、財政的に余裕も出るようになった。

建安13年(208年)、劉馥は死去した。劉馥が築いた堤防や蓄積した物資は、孫権の合肥攻撃の際に、これを撃退する上で大いに貢献した。

物語中の劉馥

小説『三国志演義』では、揚州刺史としての功績が言及されている。しかし赤壁の戦いに従軍した際に、曹操の詩を不吉と批判したため、酔っていた曹操の不興を買って殺害される。酔いから覚めた曹操は、自らの行為を泣きながら後悔し、三公の礼をもって手厚く葬るよう、子の劉熙に劉馥の遺体を引き渡している。

ただし劉熙は、史実では劉靖の子、すなわち劉馥の孫にあたる人物であり、これは『演義』作者の脚色上の誤りと思われる。

参考文献