内藤清政

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内藤 清政
時代 江戸時代初期
生誕 慶長8年(1603年
死没 元和9年6月26日1623年7月23日
別名 萬千代、萬二郎(通称)
墓所 東京都台東区の西福寺
神奈川県座間市の宗仲寺
官位 従五位下、修理亮
幕府 江戸幕府
主君 徳川秀忠家光
安房勝山藩
氏族 内藤氏
父母 父:内藤清成
兄弟 清次清政正勝、女(木造某室)、女(伊沢政信正室)、女(日向政成室)、女(小浜光隆正室)、女(松平親良室)
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内藤 清政(ないとう きよまさ)は、江戸時代初期の大名安房勝山藩内藤家の初代藩主。のちの高遠藩内藤家3代(4代とする説あり)。

生涯

慶長8年(1603年)、三河譜代であり関東総奉行を務めた内藤清成の次男として誕生する。元和3年(1617年)、老中であった兄の清次が死去したため、その跡を継ぎ相模国常陸国上総国下総国内で2万6,000石を領した。この時、従五位下修理亮に叙任した。元和8年(1622年)、安房国平・長狭両郡に領地を移され、4,000石の加増を受けて3万石となる(安房勝山藩)。

しかし、清政は翌元和9年に21歳の若さで死去した。嗣子がなく、弟の正勝も幼少だったことから、内藤家は一時的に改易された。3年後、正勝は清政の遺領から2万石を拝領し、大名に復帰するが、その正勝も若死にし、安房勝山藩は廃藩となった。

正勝の子で清政の甥の重頼旗本から出世して大名となり、のちに重頼の子清枚信濃国高遠に移封され、明治維新まで存続することとなる。

参考文献

  • 新宿歴史博物館編集『内藤清成と高遠内藤家展』(財)新宿区生涯学習財団 2008年
先代
内藤清次
大名 2万6000石
相模国常陸国上総国下総国内)
1617年 - 1622年
次代
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