コンテンツにスキップ

全泰壱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Hyolee2 (会話 | 投稿記録) による 2012年4月5日 (木) 09:48個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎略歴: 南楊州市の市制施行は1995年)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

全泰壱(チョン テイル 韓国語:전태일1948年8月26日 - 1970年11月13日)は、韓国における労働運動家である。

概要

大邱の貧しい家庭に長男として生まれ、家族でソウルに上京した後、17歳でソウル市東大門市場[1]にある平和市場(株)の縫製工場に就職した全泰壱は、そこで働いている女性労働者の多くが劣悪な環境で働かされている現状を知った。そして、長時間過密労働と低賃金で働かされたあげくに、肺炎を患ったことを理由に解雇された幼い女性工員を助けようとしたことを理由として、彼自身が解雇されたことをきっかけに労働運動に目覚め、活動するようになった。裁断士として仕事をする傍ら、独学で労働法を学び、同僚と共に勉強会を組織した上で、工場における労働実態や労働環境について調査し、それに基づいて労働庁に陳情したり、雇用者と協議を重ねたが、一向に改善の兆しが見られなかった。1970年11月、このような状況に抗議するための集会を計画し、実行に移そうとした矢先、警察と事業主に強制解散させられそうになったため、全泰壱は全身にガソリンをかぶって焼身自殺を図った。焼身直後、すぐに病院に搬送されたが、その日の夜に22歳の若さで息を引き取った。

焼身自殺の波紋

全泰壱の焼身自殺をきっかけに、労働者の悲惨な実態が報道されるようになったことで、朴正熙政権下における経済成長の負の側面が明らかとなり、停滞を余儀なくされていた労働運動が活発となった[2]。また、学生や知識人の目を労働問題に向けさせ、1970年代~80年代の民主化運動における労働者と学生及び知識人の連帯を生み出すことにも貢献した。以後、問題意識を持つ多くの大学生達が経歴を偽って工場に入って仕事をしつつ、労働運動を組織する「意識化」作業を展開し、労働運動の発展に貢献するようになった[3]

略歴

  • 1948年8月26日慶尚北道大邱市(現大邱広域市)生まれ
  • 1964年ソウル特別市に家族で上京
  • 1965年:ソウル市内を流れる清渓川沿いの平和市場内にある被服会社に入社、裁断補助、裁断士として勤務する。
  • 1969年:裁断士が集まって「바보회」(バカ会)を結成。労働条件の改善のための活動に取り組み始める。
  • 1970年
    • 9月:バカ会から新たに「三洞懇親会」を組織し、全泰壱は会長に選出される
    • 10月7日:平和市場の労働実態に関する記事が京郷新聞に掲載される[4]
    • 10月8日:三洞会の代表が平和市場(株)事務所を訪問し、屋根裏部屋の撤去や労働組合結成支援など8項目に渡る要求書を提出。
    • 10月24日:約束が守られず、改善の兆しが見えない状況に抗議するため、抗議デモを計画するが失敗に終わる。
    • 11月13日:午後1時30分頃、平和市場の前にて行った“勤労基準法火刑式”で「勤労基準法[5]を守れ!」「俺たちは機械ではない!」「私の死を無駄にするな!」と抗議しながら焼身自殺を図り、重体となる。同日の夜10時頃絶命。最期の言葉は「お腹がすいたよ…」だった。遺体は京畿道楊州郡和道面(現在の南楊州市和道邑)にある牡丹公園の民族民主烈士墓地に安置された。

出典:“全泰壱の略歴と事件概要”-全国民族民主遺家族協議会ホームページ

全泰壱通りの竣工

全泰壱が焼身自殺してから35年後の2005年、清渓川復元事業に伴い清渓6~7街を「全泰壱通り」と命名し、彼の彫像と銅板が敷かれた橋が建設[6]された。そして、同年9月30日に全泰壱の母親で労働運動家の李小仙[7]も参加して彫像の除幕式が行われた(通りの竣工は11月12日[8])。

脚注

  1. ^ 東大門市場は衣服を中心とした繊維製品を扱う市場で平和市場は代表的なものであった。
  2. ^ 1970年における労働争議は165件であったが、全泰壱の焼身自殺の翌年1971年には1656件と10倍以上に増えた(池明観『韓国 民主化への道』岩波新書、74頁)。また、1970年代には朴政権の厳しい弾圧にもかかわらず、2500以上の労働組合が結成された。
  3. ^ 前掲書71頁。無論、政府の側もこのような活動に取り組んでいる若者たちを摘発し、労働者と学生の連帯を阻止するための活動に力を入れるようになった。
  4. ^ 同記事PDF)-1970年10月7日付京郷新聞7面右上。韓国言論財団より
  5. ^ 日本における労働基準法に相当する。
  6. ^ 韓国:「全泰壹通り・橋、記念像除幕式」開催-2005年10月5日付レイバーネット。原文:전태일 다시 돌아오다”(全泰壱が帰ってきた)-毎日労働ニュース
  7. ^ 長男である全泰壱の死去後、彼女自身も逮捕・投獄される目に遭いながら息子の意思を引き継いで労働運動に関わるようになった。
  8. ^ 韓国:清渓川5街・全泰壹通り竣工-2005年11月13日付レイバーネット。原文:전태일, 평화시장에 서다 12일, 청계천 5가 전태일 거리 준공식 열려(全泰壹、平和市場に立つ 12日、清渓川5街・全泰壹通り竣工式)チャムセサン

関連項目・外部リンク