佐賀市立循誘小学校

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佐賀市立循誘小学校
地図北緯33度15分24秒 東経130度18分31秒 / 北緯33.2567度 東経130.3085度 / 33.2567; 130.3085座標: 北緯33度15分24秒 東経130度18分31秒 / 北緯33.2567度 東経130.3085度 / 33.2567; 130.3085
国公私立の別 公立学校
設置者 佐賀市
設立年月日 1875年
共学・別学 男女共学
学期 3学期制
学校コード B141220100027 ウィキデータを編集
所在地 840-0822
佐賀県佐賀市高木町15番30号
外部リンク 公式サイト
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
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佐賀市立循誘小学校(さがしりつじゅんゆうしょうがっこう)は、佐賀県佐賀市高木町にある公立小学校

沿革

  • 1875年(明治8年) - 教正小学校(きょうせい-)として設立。校地は紺屋町で、元商店の建物を用いた[1][2]
  • 1886年1月 - 柳町に移転し循誘小学校と改称、校舎を新築する[1][2]。土地は四代下村辰右衛門[3]の寄付によるもので、また建設費3,000円(当時の金額)のうち500円は佐賀市仲仕組所[4]の寄付で賄われた[1][2]
  • 1891年 - 小学校令により循誘尋常小学校と改称。
  • 1912年3月 - 高木町に移転改築。校地のほとんどは佐賀郡巨勢村の田畑を転用した。校門付近が高木町のため住所は前記の通り定まった。また、呉服町馬責馬場などの通学区域が勧興小から当校に移る[1][2]
  • 1925年(大正14年) - 校門から南方に通学路として直線道路が完成。新設された橋には「循誘橋」「記念橋」などと名付けられている[1][2]
  • 1941年(昭和16年) - 国民学校令により、循誘国民学校と改称。
  • 1947年 - 学校教育法(6・3制)施行により、佐賀市立循誘小学校と改称。

歴史

校名の由来

校名は、『論語』「子罕第九」にある以下の顔淵の言葉の一部から、2文字を採り名付けられた。

夫子循循然善誘人(夫子ふうし循循然じゅんじゅんぜんとしてく人をいざなふ)
  意訳:先生(孔子)は、我々(弟子たち)を、順序良く一歩一歩導いて(成長に応じて教育して)下さった[2][5] — 『論語』「子罕第九」之八 顏淵喟然歎

通学区域

佐賀市中心部の以下の町丁[6]

  • 全域 : 大財(二・四・五・六丁目)、紺屋町、材木、高木町、田代、東佐賀町、柳町
  • 一部 : 愛敬町、朝日町、今宿町、駅前中央(三丁目)、大財(一・三丁目)、大財北町、巨勢町大字牛島、呉服元町松原(三・四丁目)

なお、本校の通学区域はすべて中学校では佐賀市立城東中学校の通学区域となる[6]

アクセス

JR長崎本線佐賀駅からタクシーで10分・徒歩25分。佐賀市営バスでは「材木橋」バス停から10分、「片田江」バス停から20分[7]

著名な出身者

脚注

  1. ^ a b c d e 百二十年を迎える循誘小学校」、佐賀市地域文化財データベースサイト さがの歴史・文化お宝帳、2018年8月20日閲覧
  2. ^ a b c d e f 「学校の歴史 > 来年は140歳の循誘小学校」、佐賀市立循誘小学校、2014年9月、2018年8月20日閲覧
  3. ^ 思案橋のそば酒造業を営んでおり、後に貴族院議員を務めた。娘婿は作家の下村湖人
  4. ^ 松原町にあった団体。
  5. ^ 下村湖人、「現代訳論語」子罕第九 一〇(二一五)、『下村湖人全集<第五巻>』、池田書店、1965年
  6. ^ a b 佐賀市立小・中学校通学区域一覧(平成25年9月現在)」、佐賀市役所ホームページ、2018年8月20日閲覧
  7. ^ 交通アクセス」、佐賀市立循誘小学校、2014年9月、2018年8月20日閲覧

参考文献

  • 『新ふるさと循誘』、新ふるさと循誘編集実行委員会、2012年

外部リンク