佐々木泰清

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佐々木泰清
時代 鎌倉時代前期
生誕 不明
死没 弘安5年[1]6月28日1282年8月3日
改名 隠岐次郎
戒名 前信州刺史泰覚禅定門
官位 左衛門尉信濃
幕府 鎌倉幕府 六波羅探題評定衆
氏族 出雲源氏佐々木氏
父母 父:佐々木義清、母:大庭景親の娘
兄弟 政義泰清
大井朝光の娘、葛西清親の娘
義重時清頼泰義泰茂清基顕
頼清宗泰義信清村清賀
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佐々木 泰清(ささき やすきよ)は、鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府御家人佐々木義清の次男。通称は隠岐次郎。官位は左衛門少尉信濃守など。隠岐出雲両国の守護職

来歴[編集]

花輪違(七宝に花角)

政義が、建長2年12月29日(1251年1月22日[2])、無断で出家し職掌・所領を没収されたため、兄の跡式である隠岐出雲両国の守護を継承した。有力御家人との関係を築き、自らも六波羅探題評定衆に列せられる。官位は検非違使、次いで従五位下に叙爵され大夫判官、信濃守に補任された。

弘安元年(1278年)頃、出雲国守護職を三男・頼泰(母・葛西清親の娘)に、弘安5年(1282年)頃、隠岐国守護職を次男・時清(母・大井朝光の娘)にそれぞれ相続させた。泰清は子が多く、子らも各郷邑に分封され、新たに氏を称して繁栄したため、事実上の隠岐・出雲源氏の祖となる。

弘安3年(1280年)頃、病気となりその平癒を祈り、出雲鰐淵寺北院に三重塔の建立を発願した[3]

弘安5年[1]6月28日1282年8月3日)逝去。法名泰覚。

家族[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b 『鰐淵寺文書』28、佐々木頼泰書状(『鎌倉遺文』14886)
  2. ^ 『吾妻鏡』建長2年12月29日庚申(1251年1月22日)條。
  3. ^ 「祖父・信州禅門泰覺(佐々木泰清)、爲除宿痾之危、發起造塔之願、依之造立三重之塔婆」『出雲守護・佐々木貞清願文』 (所収『出雲鰐淵寺文書』第39号)

参考文献[編集]

関連項目[編集]

先代
佐々木政義
隠岐・出雲 両国守護職
1251年 - 1278年
次代
塩冶頼泰