中山みき

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Whoareyuji (会話 | 投稿記録) による 2011年5月27日 (金) 01:54個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (it is not a Miki Nakayama image!)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

教祖殿(きょうそでん)。天理教では、現在もここで生活しているとされる。

中山 美伎(なかやま みき、寛政10年4月18日1798年6月2日) - 明治20年1月26日1887年2月18日))は、日本宗教家天理教教祖。天理教教会本部では、「教祖」と書いて「おやさま」と呼称させている。

生涯

寛政10年4月18日の朝に、大和国津藩山辺郡三昧田村(現在の奈良県天理市三昧田町)の前川半七の家に生まれる。 前川家は浄土宗の檀家であったので、その感化を幼時より受ける。

浄土宗の僧侶になることを希望し、19歳の時に五重相伝を受ける。浄土宗の熱心な信者だった。

文化7年9月15日1810年10月13日)に中山善兵衞に嫁ぐ(この中山家を、天理教では「元のやしき」と呼ぶ)。

天保9年(1838年)、まず10月23日に、長男秀司が足痛で苦しんだとき、修験者市兵衞を招き祈祷をおこない、みき自ら加持代となり、このとき、「元(もと)の神、実(じつ)の神」と自ら名乗る、親神(おやがみ)・天理王命(てんりおうのみこと)がみきに乗り移り、天啓を受けたとされている。その神は、みきを「神のやしろ」として貰い受けたいと申し出て、その申し出を受け入れるならば、世の人々を救済するが、拒めば、中山家を滅ぼすと言ったという。10月26日になって、夫の善兵衛がみきを「神のやしろ」となることを承諾すると、みきの苦痛がおさまったとされる(天理教では、この日を「立教の元一日」としている)。

みきは、天理王命の神命に従い、例えば、近隣の貧民に惜しみなく財を分け与え、自らの財産をことごとく失うことがあっても、その神命に従う信念は変わらなかった。これにより、中山家は没落し貧乏暮らしをすることになったが、みきはそのことを気にすることはなかった。むしろその生活を受け入れた。

次第にみきの教えに従う人の数も増え、元治元年(1864年)、専用に「つとめ場所」を建築。このころより各地に出向き布教を行いはじめるが、次第に迫害も増え、時には陣屋に呼び出され、神を祀るのを禁止されることもあった。

慶応3年1月、『みかぐらうた』の製作に従事、かぐらのてぶりや鳴り物の稽古をはじめた。

慶応3年、京都神祇管領吉田家に願い出て、布教認可を得て、公認となり迫害は収まった。 しかし、明治維新後、吉田家の公認は無効となり、明治政府の弾圧が続く中、明治20年2月18日没する。 その間、中山みきは、神命に従い、明治初年には、『みかぐらづとめ』を完成、翌明治2年正月から『おふでさき』書始め、かんろだいの雛形製作、ぢばさだめ(明治8年6月29日)など、天理教の基を築いた。 『みかぐらうた』『おふでさき』『泥海古記』『おさしづ』は、天理教の根本の教義・教典となり、没後も本席飯降伊蔵のもと、天理教として布教が行われた(『おさしづ』のほとんどは、飯降伊蔵の口を通してのもの)。

夫善兵衛との間に、一男五女(中山秀司、おまさ、おやす、おはる、おつね、こかん)を授かる(初代真柱中山眞之亮はおはるの三男である)。

なお、天理教では人が没した場合、人間の発祥の根源「ぢば」へ帰ると解釈するため、「亡くなった」「死去した」とはせずに、「出直し」と表現するが、教祖の中山みきだけは「現身(うつしみ)を隠される」と表現している。 これは、「魂は永久に元の屋敷に留まり、存命のまま一れつ人間の成人を見守り、ご守護してくださっている」(天理教道友社「ようこそおかえり」 1985年刊より)という考えによるものである。 天理教本部では、中山みきは教祖殿で生活しているとされ、生前と同じように食事が運ばれるなど、いろいろなお世話がなされている。

参考文献

  • 『稿本天理教教祖伝』 - 伝記資料

関連項目

外部リンク