三菱21号館

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三菱21号館
5階増築以前撮影写真
情報
用途 事務所
設計者 藤村朗
建築主 三菱合資会社
事業主体 三菱地所
構造形式 鉄骨鉄筋コンクリート構造
建築面積
※530坪、附属家15坪
延床面積
※増築前2,153坪、増築後2,715坪
階数 地下室なし、地上4階
高さ 増築前52尺5寸
エレベーター数 2台
着工 1912年(大正元年)8月
竣工 1914年(大正3年)6月25日
改築 1963年(昭和38年)9月解体
所在地 東京都千代田区丸ノ内3-2
座標 北緯35度40分37.81秒 東経139度45分46.17秒 / 北緯35.6771694度 東経139.7628250度 / 35.6771694; 139.7628250
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三菱21号館みつびしにじゅういちごうかん)は、かつて日本東京都千代田区丸の内にあった建築物である。館名は第21号館であったが、三菱第21号館とも呼ばれた。

沿革[編集]

丸の内地区において多数の地所・建物を保有していた三菱合資会社により第21番目の洋風貸事務所として計画されたものであり、当時の東京府東京市麹町区有楽町1-1(後の東京都千代田区丸ノ内3-2、現・東京都千代田区丸の内三丁目3番1号)の地所において1912年(大正元年)8月より建設に着手され、1914年(大正3年)6月25日竣功となった[1]

1920年(大正9年)5月より同年12月25日にかけ、地上5階建てに増築される[1]

第二次世界大戦で日本が敗戦した後の1946年(昭和21年)3月22日、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) はこれを接収しソ連軍宿舎と成した[2]。同軍撤収後は極東空軍調達部・戦史編集部・沖縄基地建設設計部等に供される運びとなり、1953年(昭和28年)3月、1954年(昭和29年)1月11日、1956年(昭和31年)3月12日の順で段階的に解かれ、ついに同年5月をもって全てが三菱地所会社の手中となるに至った[2]

そして会社は新東京ビルヂング第2期建設の地所にあてるべく1963年(昭和38年)9月をもってこれを取り除いた[3]

建築概要[編集]

丸の内地区における鉄骨鉄筋コンクリート構造の嚆矢とされる[4]。設計は藤村朗によるものである。

21クラブ[編集]

当建物内においてはかつて「21クラブ」と称する親睦会が組織された[1]。入会資格は入居者であることとされ、新年宴会ならびに旅行が行事とされた[1]

出典[編集]

  1. ^ a b c d 『丸の内百年のあゆみ-三菱地所社史』 上巻191-195頁、資料・年表・索引187頁
  2. ^ a b 『丸の内百年のあゆみ-三菱地所社史』 上巻494頁、資料・年表・索引388-414頁
  3. ^ 『丸の内百年のあゆみ-三菱地所社史』 下巻110-112頁
  4. ^ 丸ビル改築計画(企業とオフィス戦略)(<特集>日本のオフィス)」 『建築雑誌』 第112集第1405号、24-28頁、日本建築学会、1997年4月20日。

参考文献[編集]

外部リンク[編集]