藤村朗

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藤村 朗(ふじむら あきら 1887年明治20年)11月[1] - 1953年昭和28年))は、日本建築家実業家

略歴[編集]

北海道出身。その後東京府(現・東京都)に移住。第二高等学校を経て、1911年(明治44年)東京帝国大学工科大学建築学科を卒業[1]三菱に入社し[1]、地所課技師長を務めた[1]三菱銀行本店、丸ノ内ビルヂング(丸ビル)、丸ノ内八重洲ビルヂング(八重洲ビル)法曹会館など、大正昭和期のオフィスビル建設に従事し、1937年三菱地所取締役に就任[1]。後に三菱地所社長も務めた。

親族[編集]

父・胖は旧盛岡藩士で、北海道に渡り実業家として成功、屯田銀行頭取を務めた人物。1899年、死亡。兄に「巌頭之感」で知られる藤村操1903年に日光の華厳滝で投身自殺した。妻・貴美は櫻井房記の長女[1][2]化学者櫻井錠二(房記の弟で貴美の叔父)は義叔父[3]三菱重工業社長を務めた櫻井俊記(房記の長男で貴美の兄)は義兄[2]。義弟に岩崎弥之助の三男で実業家の岩崎輝弥(妻・須美は櫻井房記の次女で貴美の妹)がいる[2][4]。朗・貴美夫妻は3男1女をもうけた[1]

著書[編集]

  • 『商店・百貨店』(共著)常磐書房

参考文献[編集]

  • 『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年9月15日発行。
  • 『人事興信録 第13版 上』人事興信所、1941年10月1日発行。
  • 『人事興信録 第14版 下』人事興信所、1943年10月1日発行。

脚注・出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g 『人事興信録 第14版 下』、フ79頁。
  2. ^ a b c 『人事興信録 第5版』、さ91頁。
  3. ^ 『人事興信録 第5版』、さ91-さ92頁。
  4. ^ 『人事興信録 第13版 上』、イ259頁。