ワット・タイラーの乱
この記事は英語版の対応するページを翻訳することにより充実させることができます。(2021年11月) 翻訳前に重要な指示を読むには右にある[表示]をクリックしてください。
|
ワット・タイラーの乱 Peasants' Revolt | |
---|---|
ワット・タイラーの反乱軍と会見するリチャード2世 | |
戦争:農民による反乱 | |
年月日:1381年5月30日 - 1381年11月 | |
場所: イングランド | |
結果:国王の勝利 | |
交戦勢力 | |
農民反乱軍 | イングランド王国 |
指導者・指揮官 | |
ワット・タイラー † ジョン・ボール † |
リチャード2世 |
ワット・タイラーの乱(Wat Tyler's Rebellion)は、1381年にイングランドで起きた農民の反乱である。指導者は、神父のジョン・ボールとワット・タイラー。英語では「Peasants' Revolt(「農民反乱」の意)」と呼ぶことが多い(「Great Rising」とも呼ばれる)。また起きた年が1381年であることから、単に「1381年の農民反乱」と言われることもある。
内容
反乱の背景には、まず1338年に始まる百年戦争がある。この戦争が長期化するにつれ、イングランドの国家財政は大幅な赤字を抱えた。これに対処すべく、王は農民に対し人頭税などの課税強化を行った。
次に、当時黒死病と呼ばれたペストが大流行したため、労働力不足に悩んだ領主が農民の移動の自由を奪い農奴制を強化していった。
これらの背景から、農民の反乱が急速に拡大し、指導者のワット・タイラーはケント地方から徒党を組んでロンドンに向かい、ついにはロンドンを占領した。反乱集団は土地証書を焼却したほか、ワットタイラーは民衆の名の下に国王に「国王と法に対する反逆者を捕え,彼らを処刑する。そして, 民衆は農奴ではなく領主に対する臣従も奉仕の義務もない,地代は1エーカーにつき4ペンスとする。誰しも自らの意志と正規の契約の下でなければ働かなくてよい」と言う事項を要求し、国王はこれを特許状として発布した。 この特許状に基づき、ワット・タイラーと民衆はカンタベリー大司教兼大法官であったサイモン・オブ・サドベリー、財務長官ロバート・ヘイルズを殺害するなどした。
反乱軍は、リチャード2世に謁見を求めた。1回目にロンドン郊外のマイル・エンドで行われた会見では、国王が農奴制廃止や反乱参加者への恩赦など反乱軍の諸要求を全面的に認める姿勢を示したため、一部の勢力は反乱から離脱した。しかし、引き続き会見を求めた勢力と2回目の会見がスミスフィールドで行われ、さらに教会財産の分配などを要求した。この際、王の傍にいたロンドン市長ウィリアム・ウォルワースがタイラーを斬りつけ殺害してしまった[1]。その後、国王は反撃に転じ、ジョン・ボールなどその他の指導者も相次いで絞首刑にされ、反乱は鎮圧された。
脚注
関連項目
- ジャックリーの乱 - 同時期にフランスで発生した農民反乱。