メアリー・マイルズ・ミンター

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メアリー・マイルズ・ミンター
Mary Miles Minter
Mary Miles Minter
本名 Mary M. Reilly
生年月日 (1902-04-01) 1902年4月1日
没年月日 (1984-08-04) 1984年8月4日(82歳没)
出生地 ルイジアナ州シュリーブポート
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
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メアリー・マイルズ・ミンター(Mary Miles Minter, 1902年4月1日 - 1984年8月4日) はサイレント映画期のアメリカ合衆国女優

略歴

ブロードウェイ女優シャーロット・シェルビーの次女として、ルイジアナ州シュリーブポートに生まれる。姉のマーガレットと共に幼い頃より舞台に立つ。1915年、13歳で映画デビュー。清純で慎ましい役柄から次代のメアリー・ピックフォードと称される。

1919年ウィリアム・デズモンド・テイラー監督「Anne of Green Gables(『赤毛のアン』の映画化、邦題『天涯の孤児』)」のヒットにより一躍スターとなる。この際、父親を知らずに育ったメアリーは30歳年上のテイラー監督に恋心を抱いたとされる。1922年、テイラー監督が自宅で何者かに殺害される事件が起こるが、その際メアリーがテイラー監督に宛てて記したラブレターが発見された事で、マスコミが書きたて一大スキャンダルとなった。

人気も失墜し女優業に失望したメアリーは、パラマウントの所属契約が切れるのをきっかけにほどなく引退。1925年には映画の出演料をめぐり母親を訴えている(後に和解)[1][2]。その後も殺人事件を巡って毀誉褒貶があったものの、1957年に実業家と結婚、晩年は裕福な生活を送った。1984年カリフォルニア州サンタモニカ脳梗塞により82歳で逝去。

現在、代表作の『天涯の孤児』のフィルムこそ消失しているものの、その他数本の映画が現存している。

関連項目

参考文献

  • ハリウッド・バビロン(ケネス・アンガー著、明石三世訳、2011年、パルコ出版、ISBN-13: 978-4891948818)
  • <喜劇映画〉を発明した男 帝王マック・セネット、自らを語る(マック・セネット著、石野たき子訳/新野敏也監訳、2014年、作品社 ISBN-13: 978-4861824722)

参照

  1. ^ 'Mother is Sued by Miss Minter', Los Angeles Times (January 30, 1925).
  2. ^ Los Angeles Examiner (May 29, 1936). The settlement was entered into evidence in a 1936 lawsuit against an investment firm.

外部リンク