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ベルトラード・ド・モンフォール

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ベルトラード・ド・モンフォール(作者不明のミニアチュール

ベルトラード・ド・モンフォール(Bertrade de Montfort, 1070年頃 - 1117年2月14日)は、モンフォール=ラモリー (Montfort-l'Amaury領主シモン1世とアニェス・デヴルーの娘。

初め、アンジュー伯フルク4世 (enと結婚し、エルサレム王にもなったフルク5世イングランドヘンリー2世の祖父)をもうけた。

1092年、ベルトラードは夫フルク4世を捨て、フランスフィリップ1世の許へ出奔した。フィリップ1世には王妃ベルト・ド・オランドがいたが、ベルトを修道院へ押し込めてベルトラードと再婚した。ベルトは1093年に死去したが、フィリップ1世は1094年にリヨン司教によって破門された。さらに1095年のクレルモン教会会議において教皇ウルバヌス2世が正式に破門を宣告した。その後、破門が解かれたこともあったが、フィリップ1世はベルトラードとの関係を断たなかったことから、1104年まで破門が繰り返された。これによりフィリップ1世は権威を失い、第1回十字軍にも参加できず、また先妻ベルトとの間の息子であるルイ6世が実権を掌握することになった。

ベルトラードはフィリップ1世との間にフィリップ、フルリーの2男と1女セシルをもうけた。セシルは初めガリラヤ公タンクレードと、次いでトリポリ伯ポンスと結婚した。