コンスタンス (アンティオキア女公)
コンスタンス Constance d'Antioche | |
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アンティオキア女公 | |
在位 | 1131年 – 1160年 |
出生 |
1127年 1163年 |
配偶者 | レーモン・ド・ポワティエ |
ルノー・ド・シャティヨン | |
子女 |
ボエモン3世 マリー フィリッパ アニェス |
王朝 | オートヴィル朝 |
父親 | ボエモン2世 |
母親 | アリックス |
コンスタンス・ダンティオケ(Constance d'Antioche, 1127年 - 1163年)は、アンティオキア公国の支配者。アンティオキア公ボエモン2世とエルサレム王女アリックスの一人娘。
生涯
父の戦死により、4歳でアンティオキア公となる。祖父のエルサレム王ボードゥアン2世(摂政在位:1130年 - 1131年)と義理の伯父フルク・ダンジュー(摂政在位:1131年 - 1136年)が、コンスタンスの摂政を務めた。母アリックスは、コンスタンスの名前で政治を行うよりも、自らの名前で公国を支配したいと望んでいた。彼女はモースルのアタベクであるザンギーに接近し、コンスタンスをイスラムの王子と結婚させて他の十字軍国家に対抗しようとした。アリックスの裏切りに怒ったボードゥアンは、娘をラタキアへ追放した。
1135年、再びアリックスは公国の実権を握ろうとし、コンスタンスをビザンティン皇帝マヌエル1世コムネノスの妃にしようと画策したが、摂政フルク・ダンジューに追放された。
1136年、フランスのアキテーヌ公の弟レーモン・ド・ポワティエが、十字軍に参加してアンティオキアへ入国した。レーモンを宮廷に迎えるにあたり、彼をアリックスの夫にすると見せかけたため、アリックスは美男のレーモンに舞い上がってしまった。ところが、30代半ばのレーモンは10歳のコンスタンスと結婚したため、だまされ恥をかかされたと知ったアリックスは、再度国外へ亡命した。
コンスタンスはレーモンとの間に3人の子を生んだ。
- ボエモン3世(1148年頃 - 1201年) - アンティオキア公、1163年より親政
- マリー(1145年 - 1182年) - マヌエル1世コムネノスの2度目の皇后。
- フィリッパ(1148年 - 1178年) - アンドロニコス1世コムネノスの愛妾。のちトロン卿オンフロワ2世と結婚。
1149年、イナドの戦いで夫レーモンは戦死した。1153年、コンスタンスはルノー・ド・シャティヨンと再婚。彼との間には1女が生まれた。
1160年、ルノーは囚われの身となり、その後16年をアレッポの牢獄で過ごした。成人した長子ボエモンは、母コンスタンスと支配をめぐっていさかいとなった。暴動が起こると、コンスタンスは亡命した。
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