Wikipedia:井戸端/subj/検証可能性の「出典を示す責任は掲載を希望する側に」の解釈について

検証可能性の「出典を示す責任は掲載を希望する側に」の解釈について[編集]

Wikipedia:検証可能性#出典を示す責任は掲載を希望する側にの解釈をめぐって、現在ノート:聖絶で揉めに揉めています。個別の問題をここで論じたいわけではないのですが、以前からここに書かれた文章の解釈が間違った方向に解釈されているように感じており、問題提起をしたいと考えていました。

《出典を示す責任は、ある編集を行った執筆者、またはその編集を残すことを希望する執筆者にあります。》以下の文章はその通りで全く問題もないし、解釈に違いも出ないでしょう。しかし、問題は次の段落で、 《信頼できる情報源を欠く編集は、除去されるのもやむを得ません。》の部分です。その後に、出典のない文章を削除すると異議を唱えられるかも知れないので、その場合は当該記述をノートページに移すなり出典要請タグを貼付することが推奨されています。それにも拘らず、引用した文章を拡大解釈してしまうのか、出典のない記述は削除してよい、或は削除すべきだと考えて行動している編集者が少なからずいるようなのです。たとえば破門の項目ですが、出典のない記述がそれだけの理由で削除されたので(これ)出典要請タグを付して差し戻したところ(これ)、「出典の提示は記述を記載する側にあります。see Wikipedia:検証可能性等参照」のコメントをつけてさんによって直ちに差し戻されました。その時は元々記述の内容自体が多少疑わしかったので、差し戻しの上コメントアウトをすることで対処しておきました。さらに今回論争となっている相手は、私が出典要請タグを付してひと月程度しか経っていない記事をいきなり削除しました。厳重に抗議をしてその時は落ち着いたのですが、それがまた再燃しています。彼によれば、出典要請タグが貼付されていても、出典のない記述は削除が可能だと思い込んでいる様子です。或は自分の気に入らない記述を削除する口実にしている可能性も高いと思いますが、本人はどうも無意識にそんな行動を取っているのではないかと勘ぐっています。その人によれば、私はWikipediaの公式方針を否定しているのだそうです。

さて、これはさすがに逸脱だと思いますが、このような解釈が横行すると、怖くて出典要請タグを記事に添付できなくなります。確かに今回の例は特殊だとは思いますが、管理者である欅さんも出典のない記述は即削除してよいと考えているようです。私は「疑わしきは残す」の精神でやって来たし、Wikipedia上の包摂主義で編集に臨んできたつもりです。私のように6~7年前からWikipediaに関わってきた人間としては、昨今の状況はいささか問題があると感じました。上記のような規則の解釈は拡大解釈だと思うのですが、皆さんはどのようにお考えでしょうか? 私は検証可能性のこの箇所は「削除して構わない」という意味として読むべきではないと思うのですが、如何なものなのでしょうか? そうでないと、出典要請のタグの存在価値がなくなってしまいます。

なお、なぜこの部分が一部の人によって拡大解釈されるのかは、長くなるのでここでは書かないで起きますが、これに関しては何れ「検証可能性」のノートページで問題提起し、拡大解釈をされないような文言に直すよう提案したいと考えています。 --Bokemiann 2011年1月26日 (水) 16:20 (UTC)[返信]

コメント私の個人的な見解かも知れませんが、出典要請タグは、(1)独自研究の疑いなど明らかに問題のある記述に付される性格のものと、(2)単に出典の明示を求めるためだけに付される性格のものの2種類がある、あってよいと思っています。タグでその区別が出来るようになれば、上記のような逸脱編集も少なくなるのではないかと考えています。--Bokemiann 2011年1月26日 (水) 16:27 (UTC)[返信]
コメント書かないでおこうかと思ったのですが、なぜ「出典を示す責任は掲載を希望する側に」の文章が拡大解釈されてしまうのか? それはこの項目が、(1)記事を書く人に出典のある文書委を書くように促す内容の文章と、(2)それ以外の編集者に対して出典のない文章に対する姿勢を説明している内容の文章とが一箇所にまとまって書かれているからだと思います。そのため、混同が起こるのではないでしょうか。それも原因のひとつだと考えています。--Bokemiann 2011年1月26日 (水) 16:52 (UTC)[返信]
情報源のない記述は、削除すべき、というのは間違いです。情報源のない記述は、情報源を付けて残す。
コメント出典がないと言うことは、その記述の信頼性を担保するものがなにもないということです。虚偽であったり、信頼性に欠けていると思ったり、中立性を確保するためだったり、といった理由で、編集で除去しようと考える人もいるでしょう。それは、「当面」不確かな記述を残すのではなく、除去しておくことで、記述の信頼性を確保しようという考えです。「当面」というのは、情報源が示されるまで、ですね。そういう意味では、「除去してもよい」です。
もちろん、いきなり除去するのがよいわけではありません。記述内容の性質にもよりますが、要出典関係のタグを使うことも推奨されますが、自ら探すこともできますし、執筆者やプロジェクトやノートを活用することもできるでしょう。どんな方法でも、とにかく出典が付いた記述にするように、手段を講じるのが望ましい。出典要請タグを記事に添付できなくなるということはありません。出典要請タグを付けていれば、誰かが付けることを促すことができると同時に、読者がそのまま信じ込むことを避けることができます。
そして、タグが付いていれば出典がなくても構わないと言うことではありません。いつまでたっても、誰も出典を加えなければ、除去を検討することになります。除去した上で、当該記述をノートページに移すことが推奨される。移していなければ、気付いた人が移してもよいです。
どこまで時間や労力をかけるか、推奨とされる手順を踏むか、というのは、記述を見ての判断になります。破門の例では、何かを情報源として書いているようには見えませんし、破門の説明として重要と言うわけでもないですから、すぐに除去でもいいと思いました。
二つ目のコメントの「この文書」は、検証可能性の方針をさすのか、「出典を示す責任は掲載を希望する側に」の節をさすのか、どちらでしょう?--Ks aka 98 2011年1月26日 (水) 17:21 (UTC)[返信]
二つめの「この項目」だと思いますが、「出典を示す責任は掲載を希望する側に」の節の方です。
おっしゃる通りだと思います。ここでいうことではないかも知れませんが、私もそういう線で編集してきたのですが、昔と違ってWikipediaの規則が複雑になるに従って、初めてWikipediaの編集に関わる人には規則間の関連や軽重などがますます分かりにくくなっているのではないか思います。何せ膨大で複雑ですし、ある意味で相互に矛盾している面もあるでしょう。そういった規則を読んで、どれかひとつの規則を通常以上に重く解釈してしまうと、悪意がないのに逸脱編集をしてしまうということがあるように思います。それらしき人も何人か見てきましたが、その度合いの余りに酷い人は大概消えてゆきました。そんな状況で、「出典を示す責任は掲載を希望する側に」の文章が拡大ないしは間違って解釈されてしまったようです。現在論争中の事例が最初で、その後直ぐに破門の事例に出会ったので、これは何とかしないとまずいと思ったわけです。論争中の事例はあくまで特殊例(キリスト教関連の記事では出典要請タグが付いてひと月もすれば削除されてしまうらしいです。以前にはなかったことで驚いています)でしょうから、杞憂であればよいのですが、それでも、中には「出典を示す責任は掲載を希望する側に」の件の文言を自分の気に入らない記述を削除する口実にする人も少なからず出て来るのではないかと心配しています。そのための問題提起でした。--Bokemiann 2011年1月26日 (水) 17:54 (UTC)[返信]
拡大解釈しているのはBokemiann氏のほうですね。記事を書くに当たって、どうやって書いたのですか?自分の思い込みを書いたのでなければ、何かの資料を元に書いたのでしょう?それを書けばいいのです。ただしそれは信頼できる情報源でなければダメですけどね。だから、なにも出典を提示も出来ないなんてなにを元に書いたのですか?って当然いわれるでしょう。そんないい加減なものを載せるわけには行きません。削除されたって、出典をつけて再投稿すればいいのです。なんで猶予を与えなければならないのですか?思い込みで書いたものだから削除されたら2度と投稿できないのではないですか?きちんとした元資料があれば再投稿は容易です。そして、記事は何かを元に書くものだから、誰かが出典つけてくれるのを期待するなんてことが矛盾したことだってわかりませんか?出典の無い記事は削除されても文句は言えません。wikipediaの根幹に文句があるなら別のwikiに投稿してください。--パタゴニア 2011年1月27日 (木) 00:54 (UTC)[返信]
念のために横から指摘しますが、今回問題となっている記述は、Bokemiannさんが執筆したものではありません。Bokemiannさんが「要出典」を付けて出典を待っていた記述が除去されたことを契機とした編集合戦なのです。それはリンク先のノート:聖絶でも言及されているのですけどね。他の利用者に上記のように強い口調で注意する際には、もう少し事情を把握されてからなさった方が、余計な軋轢を招くことがなくなると思いますよ。自戒も込めて。--ろう(Law soma) D C 2011年1月27日 (木) 02:32 (UTC)[返信]
コメント補足ありがとうございます。私はここで具体的な事例について相談しているのではなく、一般論として論じています。上のKs aka 98さんへのレスにも書いたように、「出典を示す責任は掲載を希望する側に」の文章が特に悪意ある編集者によって拡大解釈されることもあるかも知れないことを懸念しての問題提起の側面もあるのです。個別のことは個別のノートページ等で論じればよいことで、ここに持込むべきでは本来ありません。ここで書いたのはあくまで一般論としての規則の解釈について広くご意見を伺いたかったからです。その上で、その議論を踏まえて「検証可能性」や出典タグ関係のノートページ他で問題提起をしたいと考えています。--Bokemiann 2011年1月27日 (木) 06:01 (UTC)[返信]
最も好ましいのは、タグの効果で出典がつくことです。 編集者の傾向にもよりますが、タグを貼って1週間以内で除去は相手も間に合わず、早すぎるように思います。1ヶ月放置の後、除去された場合はゆっくり出典を用意して再投稿すれば良いだろうし、6ヶ月以上放置は無責任のように思います。「要出典」は文責がある人への警告という面と第三者への協力の呼びかけという二面性があることを消しまくってるユーザーに説明し、「要出典」がついているものは必ず削除しないといけないことでもないという事を知ってもらうことも重要でしょう。出典なしに記述した方のノートにもお知らせすればもっと丁寧ですね。--Gyulfox 2011年1月27日 (木) 03:27 (UTC)[返信]
私は「要出典タグ」は殆ど出典を知っている第三者への「出典要請」の意味合いで使っています。警告の意味合いで使ったことは殆どありません。それをするなら相手のノート他にも書き込みますが、聖絶の記述の一部はIP氏によるものだったので、それが出来ないのです。なお、私は削除ではなくコメントアウトないしはノートページへの移行で対処するのがベターだと思っています。また、これは出典関係のページで提案するのがよいでしょうが、「出典要請」タグに第三者への呼びかけと執筆者への警告を意味するものの区別が付くようなものの2種類を用意してはどうかと考えています。なお私は、記事によっては半年放置もそれほど無責任とは感じません。これらは、私が2004年にWikipediaに参加したこともあって、そのことから来る感覚の違いもあるかと思います。当時は出典要請タグもなく、古い記述は出典がないものが多いので、今回はそのことも踏まえての提案です。蛇足ながら、具体的には議論をつくせばお互いに気持ちの面でも落ち着いて考えも変わると思うのですが(私の場合は特に)、今回の相手はそうはゆかないのようで、こちらも引っ込みが付かなくなってしまったという事情があります。--Bokemiann 2011年1月27日 (木) 06:01 (UTC)[返信]
書いた編集者がIPユーザーではやりにくいですね。第三者への要請であったことは分かりました。 説得しても今回の相手はそうはゆかないという判断であるなら、そのまま回復することは編集合戦になるでしょうから、消された部分をノートの上部にでも移して呼びかけるか、御自分で勉強してそれに似た文章を再投稿するぐらいでしょうね。(結局そのほうが早いと思います) あるいは双方表ページでの編集を停止して、プロジェクトでどうするか議論しましょうと持ちかけて、編集が止まらない(あるいは既に合意破り状態)であれば、利用者の行為という事で、第三者意見を募ることも出来ます。--Gyulfox 2011年1月27日 (木) 06:33 (UTC)   [返信]
単発で要出典タグがついた文章を削除することは正当な行為です。ただし特定の利用者が要出典タグをつけた片端から削除してゆく行為はルールの悪用にはなるでしょう。--Gyulfox 2011年1月27日 (木) 07:23 (UTC)[返信]
2つだけ言わせてもらいます。「要出典」タグの主な機能に『出典を…誰かが付けることを促す』のがあるというのは編集者間の共通理解として主流なのでしょうか? 確かに要出典タグによって出典が書き加えられることがあれば良いのでしょうが、要出典タグを加える人やそのような編集を確認した人は「出典付加を促す」よりも信頼性に疑問があるので(自ら、または他の編集者によって)「削除や大幅に編集しても良いだろうか」という次の編集への事前宣言の意図と、読者へ向けての「間違っている可能性があるので信頼し過ぎないで下さい」という注意喚起の意図が主体であると考え/想像しているのではないでしょうか。本文の記述を(ほぼ)そのままに「出典を付加する」よりも、出典に基づいて書き直した方が容易だからです。また、要出典タグが貼られてから実際に削除や大幅な改変が行われるまでの期間は、内容によって大きく異なるのではないかと考えます。例えば記述内容が余りに酷いものは独自研究として短期間に修正されることが多いと思うのですが、同様に、それに匹敵する低品質な記述は要出典タグによって数週間程度の短さで修正されるのではないでしょうか? また、編集者によっては内容に疑問が無いにも関わらず出典が明記されていないと機械的に要出典タグを貼る人がおり、そのような場合は実際の修正が行われるのは比較的長い、または、ほぼ半永久的に手が加わらないということになると思います。--Shigeru23 2011年1月29日 (土) 09:33 (UTC)[返信]
1つは「要出典」タグが≪信頼性に問題がある≫などの「出典が明記されていない」ということ以上の意味を持っているかどうかの利用者間での認識の違い、もう1つは「出典が明記されていないこと」言い換えると「検証可能な情報が記事に記されていないこと」に対する記述内容の扱いに対する利用者間での姿勢の違い、この両者を分けて考えるほうがいいのではと思います。
前者に関連して、≪『出典を…誰かが付けることを促す』のがあるというのは編集者間の共通理解≫だとは思いますが、それが「要出典」タグの主機能と捉えているかは人によって異なると思います。そして、≪信頼性に問題がある≫という意味を内包しているかどうかの認識も違うのではないかと思います。「出典を知っている人がいたら教えてください。その瞬間からあなたも執筆者の仲間入りです。」/「出典が記されておらず、もしかすると間違っている記述かもしれません」/「出典が記されておらず、間違っている可能性がそこそこあります。」と、読者向けの注意喚起の程度についても人によって認識が異なるように思います。≪信頼性に問題がある≫という情報を持つことあるいは持たないことの明確化を目的として別タグを設けることには賛成です。≪信頼性に問題がある≫という情報を持つということにするなら「出典要請」のようなタグを設けることになりますし、≪信頼性に問題がある≫という情報を持たないことにするなら「信頼性」のインラインテンプレートのようなタグを設けることになるでしょう。既存の「要出典」タグの扱いが困ったことになりそうですが、不適切な貼り付けと思う人が順次貼り替えなり出典付与なりしていくしかないと思います。
後者に関連して、下で誘導した先の議論の繰り返しですが、検証可能でないことのみを理由とした除去については参加者によって姿勢が異なりますし、期間についての考えも異なると思います。貼り付け期間については分野および記事への参加人数によっても大きく異なる話と思います。例えば、先日編集した「返報性の原理」には、2009年7月、初版執筆の3時間後から1年半近く要出典系テンプレートが付与されていました。月1000件近い閲覧数ですから(コンピュータ系の過疎記事と比べても)それほど極端な過疎分野というわけでもないと思うのですが、それでも1年以上出典が何ら示されていませんでした。出典が全くない「返報性の原理」のような記事は他にも大量にあると思っていますし、それらに対して記述除去するともはや記事として成立しなくなりますが、削除されるべき記事主題だとは私には思えません。もしかすると{{出典の明記}}のような冒頭テンプレートと{{要出典}}のようなインラインテンプレートでは出典を明記することに対する出典要求の強さの違いを感じている利用者さんが多いのかもしれませんが、それならそれで、その違いが何であるのかを明かにすることができれば、Shigeru23さんが今感じている疑問を解決する糸口になるかもしれません。--NISYAN 2011年1月30日 (日) 06:55 (UTC)[返信]

Bokemiannさんはさかんに「拡大解釈」とおっしゃられていますが、Wikipedia:検証可能性(WP:V)はまさに「出典のついていない記述は編集除去していよい」と定めており、それが正当な解釈なのだと私は理解しています。私がウィキペディア日本語版に関わりだしのは(Bokemiannさんと同じく?)7年以上前ですが、そもそもWP:Vのページは存在していなかったようですし、そのころにはたしかに検証可能性や出典の付記についてうるさく言われていなかったと記憶しています。しかし、私がウィキペディア日本語版に本格的に関わりだした2007年ころにはすでに検証可能性や出典の付記について理念としてはかなり厳格に要求されていたと思いますし、WP:Vが正式な方針となったはその1年か半年前のようですから、WP:Vはその当初から、あるいはそれが成立してから早い時期にすでにかなり厳格な理解がされていたということでしょう。
想像をめぐらせれば、WP:Vは、何らかの記述の内容の真偽について執筆者間で争いになった場合のことを想定して「出典を示す責任は掲載を希望する側に」としているのだと考えることは可能でしょうし、そのように理解するのであれば、いまだ意見の対立が現れていない状況で出典がついていないことだけを理由をいきなり除去するのは、不意打ちじみていて好ましくない、と理解することも可能だろうとは思います。しかし、いきなり除去してもそのこと自体によって意見の対立が明らかになるわけで、そのまえにあれこれ手順を踏むことにどれほど意味があるのだろうかと疑問に思います。また、その除去された記述が永遠に失われてしまうわけではなく、出典を見つけて復帰させることは可能なのですから、ウィキペディアにとっても、当初その記述を行った執筆者にとってもそれほど不利益なこととも思えません。この点は重要なので繰り返しますが、除去された記述は出典を付ければ復帰させることができるのです。
この手の議論の場合にたびたび指摘されるのですが、記述する側は苦労して執筆しているのに、除去する側はそれに比べて簡単に行うことができます。それは一面ではそのとおりなのですが、だからといって執筆する側と除去する側で負担を対等にせよと要求する「公平論」は理解しがたいものですし、まさにそのように「公平」である必要はない、というのがWP:Vの示すところでしょう。--mizusumashi(みずすまし) 2011年1月28日 (金) 19:05 (UTC)[返信]

方針を杓子定規に適用すれば、それは当然イザコザも起きると思います。検証可能性方針の示す「出典のついていない記述は編集除去してよい」という文言は、利用者が主観的に見て、「まず間違いなく」間違いだ、という時に適用するものだと思います。正確性についてどうも怪しいけど、間違いかどうか、断ずるには憚られる、ないしは、該当する記述が面白いから、できれば検証資料を添付して残したい記述だ、という時に要出典テンプレートを用いる、というのが、イザコザを起こさずに済む、要出典テンプレートの使い方であり、検証可能性方針の使い方ではないかと、思います。例えば私は乳鉢の語源に要出典を添付しました。ノートをご覧いただければ事情はわかっていただけると思いますが、該当する記述はかなり面白い記述なので、できれば残したい。だが、出典なしで放置するには、忍びない(ウィキペディアによれば語源はこうらしいよ、なんて掲載しているサイトを見て、危機感を持ちました)。読者への警告の意味も込めて、文献募集ということで要出典テンプレートを添付しています。これをコメントアウトしたり編集除去するという方もあるのでしょうが、コメントアウトや編集除去されてしまったら、読者・編集者の目に触れる機会は失われ、まず間違いなく、文献が提供される可能性はなくなってしまう。なので、気長に待っています。これをコメントアウト・編集除去するという考えの方もいらっしゃるでしょうが、それは生産的な行為ではないと思います。
さて、対象となっている項目を拝見しました。こういう執筆者どうしの対立が生まれやすい分野の項目では、過剰なほど先行文献を添える必要があると思います。そこは、そういう分野の項目を編集される方特有の問題でしょう。結局、検証資料の目的は、ケチが付いた時への備えであって、ケチが付きやすいとわかっているのであれば、予め、文献による検証可能性の確保を十分に行っておかなければならないと思います。
ケチのつけ方にも問題があるんですけどもね。誤りであることをほぼ確信しているわけでもない記述を「出典がないから除去だ!」といって杓子定規に除去して回るような考え方が蔓延しては困ります。そもそも、検証可能性の目的は、正確性の確保と、論争の解決です。ウィキというシステムを取っている以上、ウィキペディアの基本の考え方は性善説であり、正確性に関しては、文献が添えられていなくても、基本的には信用するのが前提だと思います(もちろん、明らかに誤っていれば、文献を添えて訂正する。例:黄緑#黄緑色に関する事項の食欲増進→食欲減退[1])。問題は、論争です。先程の黄緑の修正も、文献を添えずに変更すれば、論争となったでしょう。これを丸く収めるために案出されたのが検証可能性という考え方です。どうも、正確性について、性悪説の立場から検証資料を求めすぎる傾向が目立ちます。やはり、出典という語が、誤解を招いているように思います。検証可能性が求めているのは全ての記述の出典(出どころ)ではなくて、奇抜な記述の検証資料(典拠)でしょう。著作権上、ウィキペディアの記事は他の文献に「依拠」することなく、執筆者オリジナルの文章によって記述されなければならず、文献が示されたとしても、それは出どころではなく、同様の情報が掲載された検証資料(典拠)である、ソースではない、という立場を堅持しなければなりません(二次的著作物ではないことを主張しなければならない)。検証可能性を求めすぎて依拠性を残存させれば著作権上の問題が発生することを鑑み、検証可能性方針に関しては、ある程度、恣意的な運用が必要と考えます。つまり、奇抜でない記述にまで検証資料を求め、資料が示されないからと言って除去して回るのは、ナンセンスだ、ということです。奇抜か奇抜でないかの判断は主観なので判断が難しいところですが、そこを判断せずに「出典がないから除去」と言って除去して回ることは、ウィキペディア全体にわたって著作権的なリスクを高める行為だと思います。--Akaniji 2011年1月29日 (土) 00:45 (UTC)[返信]
コメント 私はmizusumashiさんとは逆に2007年頃は半分ウィキブレイクしていたので、感覚の違いがあるのかも知れません(検証可能性の条項が出来たのは確か2006年です)。私はWikipedia上の、包摂主義の立場を取っており、当然「疑わしきは削除せず(何らかの形で残す)」の精神で編集してきました。排他主義ならばまだしも、削除主義は論題だと思っています。従って私の見解は、上のAkanijiさんとほぼ同じです。
私が今回問題提起したのは、上に例示した記事において、検証可能性の件の文言の「削除してもよい」を削除の口実にするような編集者が今度出てくるのではないか(実際今も出ているだろう)との危惧を懐いたからです。現在私はウィキブレイク中(仕事がヤバイ!!)なので余り詳しいことは言わないでおきますが、私の目から見てPOVで両論併記も嫌う編集者がいます。彼は自分の立場と違う編集に対して厳しい態度を取りがちで、無意識かも分かりませんが、自分のPOVを通すために記事の分割をやたらと主張することが多いようです。ここはコメント依頼の場ではないし、私も今は時間を取れないので事例の提示は控えますが(一般論として読んで下さって構いません)、そのような編集者だからこそ「出典要請」タグがついたのをよいことにひと月足らずで削除行為に出たのだと見ています。これはあくまで私の解釈ですが、今回も件の箇所に私が自分なりに加筆し、出典を付した箇所がその方のお気に召さなかったのでしょう、編集合戦が再燃してしまいました。現在は、彼の好む各論別記で完全に記事を分割する案を私が提出して、それでひとまず聖絶に関してはまとまる見通しです。こういう実例があるので、逸脱編集を目的とするような編集者に、「出典を示す責任は掲載を希望する側に」の文言を曲解させないためにも、一度この部分を一度見直して、誤解のないような明確な表現に書き直したらよいのではないかと思っています。そんな訳で、今回思い切って井戸端に問題提起をして出典要請タグや規則の解釈について皆さんのご意見を一度伺って議論しておきたいと思った次第です。長くなりましたが、一般論では私の危惧を中々理解していただけないようなので、今回はあえて多少詳しく事情について触れました。場合によってはコメント依頼も考えています。
最後に、私の場合「残す」にいささか傾きすぎていたようですが、必ずしも私の意見が少数ではなかったことが分かり、多少安心いたしました。--Bokemiann 2011年1月30日 (日) 14:06 (UTC)[返信]

コメント出典要請テンプレートにおける、付与対象記述の信憑性によってテンプレートが複数種類あってもいいのではないかということについては、過去議論「Wikipedia:井戸端/subj/Wikipedia:出典を明記する の「必要があれば」の解釈」というものがありますが、テンプレートの新設には至っていません。私の理解では左記議論および「Wikipedia:井戸端/subj/長期間「要出典」タグが付与された記述の編集除去について」に書いたことですが、出典要請テンプレート自体が≪単に出典の明示を求めるためだけに付される≫目的のものであり、≪独自研究の疑いなど明らかに問題のある記述に付される≫ような場合には、{{正確性}}{{独自研究}}(節単位)の併用なり、{{要出典}}のtitle引数なり、ノートや要約欄への説明なり、出典要請テンプレートに情報付与する形で示されるのが妥当と考えています。{{正確性}}{{独自研究}}のインラインテンプレート版の新設という意味なら賛成寄りの考えです。この発言時点でコンシーラー(知らない人は少ないと思いますが、一応580万件のヒット数である「Google:+"コンシーラー"」も置いておく)すらない、まだまだ量的充実すら欠ける現状のウィキペディア日本語版にとっては、検証可能でないことそれのみを理由に記述除去していくのは記事成長の阻害でしかなく、除去するあるいは除去を予定しているなら≪虚偽であったり、信頼性に欠けていると思ったり、中立性を確保するためだったり≫除去される根拠となる他の理由があるだろうからそれを示してほしいと思っています。そういうのを示さずに除去し、それで異論がある人との議論を開始するという手法もないわけではありませんが、議論が始まらないケースも往々にしてあります(示して除去という人にも、議論に参加しようとしないことは往々にしてありますし、IPさんだけでなく利用者さんにもいらっしゃいます)し、そういうやり方がうまいやり方かというと疑問を感じます。--NISYAN 2011年1月29日 (土) 02:53 (UTC) 1桁足りなかったので修正 --NISYAN 2011年1月30日 (日) 06:55 (UTC)[返信]

 「{{正確性}}{{独自研究}}のインラインテンプレート版」はTemplate:要検証で賄えるのではないでしょうか。要出典テンプレートのdoc冒頭に、要検証テンプレートへの誘導リンクを、目立つ形で置いておくと良いのかもしれません。Template‐ノート:要検証もご覧ください。--Akaniji 2011年1月30日 (日) 13:29 (UTC)[返信]
確かに「Template:要検証」でいけそうに思います。しかしそれには、「要出典」タグが≪信頼性に問題がある≫などの「出典が明記されていない」ということ以上の意味を持っていないという前提があります。その前提がなければ、記述内容に疑問がある場合でも「要出典タグで充分」となってしまいますので。その前提も含めた形、「このテンプレートは純粋に出典の提示を求めるテンプレートです。記述内容に疑問があるなど、出典を求める以上の意図がある場合は、……との併用を行ってください。」(文章はこなれていませんが)で改訂できると嬉しい気がします。--NISYAN 2011年1月30日 (日) 22:26 (UTC)[返信]

コメント僕は、この議論見てて、結構安心したというか、WPの成長原理を深く理解してる人が多いんだな、と想いました。逆にパタゴニア氏やmizusumashi氏みたいな利用者ばっかだと困る。『なんで猶予を与えなければならないのですか?』猶予を与えるべきだ。逆にじゃあ、なんのために要出典タグみたいなものが存在してきたのか?猶予を与えようという正当性を示すためだ。ナゼ猶予を与えるのが正当なのか?それはWikipediaってのが、常に100%正確でカンペキなまま逐次的に成長していくものではなくて、95%くらいは正確、あるいは少なくとも90%以上は正確ではあってほしいが、情報が追加され整理され整頓されるというグレーゾーンを常に許、どの瞬間でも、許容しながら、その仕組を原理的に内包しながら成長するプロジェクトだからだ。  『しかし、いきなり除去してもそのこと自体によって意見の対立が明らかになるわけで、そのまえにあれこれ手順を踏むことにどれほど意味があるのだろうかと疑問に思います。』 いきなり除去するのは、それは情報追加した編集者を挑発するためにするのだろうか?その行為によって「この記事には不備がございます、出典をご存知の方はふるってご参加ください、正確度を担保してください」というプロジェクトならではの呼びかけが、二者間の闘争に矮小化されてしまうわけだ。今、例にあげた利用者おふたりには共通点があって、それはこのプロジェクトは、できるだけどの瞬間も100%の正確性がないといけないという、プロジェクトが原理的に達成不能なラインを想定し、それを猶予期間をもうけない削除という行為によって強引に成し遂げようとしているらしいこと。そしてその猶予期間のない削除は、他の多くの方があたりまえにご指摘のとおり、記事成長の阻害に外ならないということ、それらを理解しておられないようだ。記事が成長する、第一フェイズにおいて、まず情報の追加がなければならないし、それは常に出典がついてるとは限らない。それはこのプロジェクトはまずしっかり許容する設定になっており、出典追加は後付でも結構、そのほうがより効率的な成長が期待できるという考えになってるのは、みりゃわかる。おわかりにならないかな?そのために要出典タグというツールがしっかり用意されているのですよ。そして猶予期間をもうけ、残念ながら、非常に残念ながら出典の追加が見込めなさそう、と大勢が判明してはじめて、その箇所は除去する、という作法なんじゃないですか?この辺の、なるだけ情報は残すように全力を尽くせよ!みたいなことは結構基本方針の根っこのほうに幾度もことばを変えながら重複して書いてありますよね?結局のところ、今回のトピックにおいては、各人の各所の方針解釈というよりかは、この根っこの方針、というかプロジェクトの原理が何たるかの根本的理解の有無、それによってもたらされる、参加姿勢、メンタリティの問題なんじゃないかと考える。できるだけ、せっかく追加された発展のもとの情報は残そうよ、出典あればいいけど、なかったら残念だな、どなたか出典追加できる方はおられませんかあ?ああないのかじゃあ仕方がない泣く泣く除去だ、、って思いながら成長させようと参加してんのか?それとも、ここは100%正確な記事であるのが望ましい、あたりまえだろう、不正確な記述は一切わたしは許容しない!発見しだい猶予期間を与えずに躊躇なく除去させてもらう!不純物は不要。そんなに情報追加したいのなら出典つけて提出しなおせ、と大上段に構えるのか(僕には普段彼らはそういう態度でのぞんでいるとしか見受けられないからね)?そういうメンタリティの違いでしょ。そして、後者はあなたがた間違ってるし、もっかいこのプロジェクトがどういう原理によって繁栄してるのか、基本方針をじっくり読み直されることをオススメしたい。--112.68.50.109 2011年1月30日 (日) 10:35 (UTC)[返信]

コメント 弁明です。検証可能性関係の議論に加わるのは火中の栗を拾うに等しいのですが、覚悟を決めて一言。私もこれまで出典を明記していない編集を多くしてきました。しかし、それは自慢できることではない、開き直ってはいけないと認識してもいます。112.68.50.109さんのご意見(「基本方針の根っこ」論)には全面的に理解をします。しかしながら、それは後ろめたさを伴っていなければならないと思います。全ての編集者は、「出典の明記」を心がけなくてはならないのです。「出典の明記」を当然の前提としたうえで、出典・典拠を求めることをせずにいきなり除去するのか、一定期間出典・典拠を求めるのかというのはスタンスの違いに過ぎませんが、出典・典拠なしの投稿をした利用者は、自分の編集が除去されたからといって文句を言えた義理ではないのです。勿論、ちょっとネットを探せばすぐに典拠が見つかるような場合や一般常識に限りなく近い記述について、機械的に除去する行為は「方針の濫用」ではないか、とも思わないでもありません。しかし、「出典の明記」を単なる理想論と切って捨てることは、それは書きっぱなしのスタブ量産を正当化してしまうことに繋がります。要は、「出典の明記」方針を軽視することは、諸刃の剣なのです。私自身、これまで出典なしで投稿してきた多くの記事について、少しずつ出典を付け加える努力をしております。気が向いたとき、気が付いたとき、と遅々として進まずとも、少なくともその努力を忘れてはいけないと思います。なお、誤解があるかもしれませんので念のために書いておきますが、「包摂主義(中略)は編集方針の検証可能性が担保される範囲においてである。」となっています。--ろう(Law soma) D C 2011年1月31日 (月) 05:42 (UTC)[返信]
Laws somaさんの「後ろめたく感じる」という個人的心象は立派。でもね、それを「後ろめたさを伴っていなければならない」とか「出典・典拠なしの投稿をした利用者は、自分の編集が除去されたからといって文句を言えた義理ではない」と、一般化し、そういうグループを牽制、あるいは削除という実行力をもって「攻撃」する話法がおかしいんじゃないでしょうか。あなたもご自身そうやって認めおられるとおり、当初は出典もあまり気にせずに参加し、経験を積み、今そうやって成長されているわけです。これもプロジェクトの重要な原理ではあるが、ここは最初からオープンであり、誰でも参加できることを是としている。編集者をフィルタリングしない。方針読んでから同意ボタンを押したり小テストを受けてから編集許可を得るみたいない仕組みにもなっていない。それはもうあきらめてるんですね。そこをあきらめる代わりに誰でも編集できる百科事典として成功した経緯がある。一定スキルを獲得した常連からみれば、そりゃ後進の参加者には至らないことも多くて、何してくれるんだ、って思いやすいのだけど、それをね、文句言えた義理ではない、だの、後ろめたさをもてだの、そういうPOVを是とする設定にはプロジェクトはなっておらない。そういう陥りやすい態度を戒めるガイドラインもあるでしょう。わざわざ引っ張り出さないけれども。そして誰も出典の明記を軽視するなんて書いていない。出典の猶予期間があって、それは本来みんなで探せばいいこと。それをね、ゴミクズ記事に仕立て上げようと不純物を混ぜ用とする初心者の尻拭いである、と対人論法にしてるのが間違い。あなたのような経験を積んだ常連利用者が、その内心で「出典出さずに追記するのは後ろめたい」と成熟するのは立派。そして、後進に、出典つけるように頑張ってくださいね、とかつての自分を想起しながら指導に勤しむのなら、さらに立派。しかしそうではなく、後ろめたさを共有すべきと個人的心象を他人に押し付けたり、アドバイスしたり話しあったりすることもなしに、いきなり除去して牽制、挑発みたいなマネしちゃって(これ正当化する人この節のみならず、いっぱい存在しますよね?)、本来の出典捜す、あればいいな、今度からなるべく出典担保してから書いてよ、みたいなことでもなく、実質的な作業の全否定、その作業をした利用者牽制排除とかしてる人間が目に余りますねえ。良く考えてみてくださいよ。みんな即時に削除するみたいな行為を擁護するひとらって、ルールをしきりに持ち出して解釈するくせに、「猶予は認めない」とか「直ぐに削除しないことに何の意味があるのかわからない」とか「後ろめたさを感じよう」とか、結局その独自理念はどっから出てきて、どういう方針理念に根ざしているんですか?って僕いつもおもうな。それ根本理念と矛盾してる独自方針だという自覚がないのだろうか?って。 --112.68.50.109 2011年1月31日 (月) 07:37 (UTC)[返信]
Law somaさんへ、「それは書きっぱなしのスタブ量産を正当化してしまうことに繋がります」というのが、僕がみるところ唯一の「なぜいけないか?」みたいな論拠になってるとおもうんですけど、スタブ量産がいけない、みたいな考えはどっから出てきたのですか?これよく聞くけど、それ僕が指摘した100%幻想なんじゃないのだろうか。スタブはこうやって成長させようみたいな文書はあるけど、スタブは削除せよみたいな事はもちろんないし、スタブが増えることをこまめな削除行為をもって抑制せよ、みたいなガイドラインも見たことないし、ないのは当然でそれは理念じゃないから。その考え、いったいどこから出てきたんですか?独自ルール?教えてください、よろしくお願いします。--112.68.50.109 2011年1月31日 (月) 07:53 (UTC)[返信]
んー、私の話法が拙かったですかね?個人的信条としては112.68.50.109さんの論を全面的に理解、と書いているとおり、おっしゃることはよく分かるんですよ。それがここの根本的立脚点だと思うし「後ろめたさを伴っていなければならない」と書いたのは、「後ろめたさを伴っていた方がよい」と書くべきだったかもしれない。しかしですね、現状スタブにすらなっていない書き逃げが無茶苦茶多いことは、削除記録をご覧頂ければお分かりと思います。スタブは当然許せますよ。成長する種ならね。しかし種でなく小石でしかない、成長できないような投稿も多いのです。スタブを削除せよというルールはありません。しかしWikipedia:即時削除の方針には「定義になっていない、あるいは文章になっていないもの」というのがあります。私はこれでもよほどでないと即時削除しないのですが、それでもほぼ毎日見つけます。スタブが量産されると、定義になっていないようなサブスタブ以下の記事もそのうち一定割合は作成されるんですよ。独自研究かもしれませんけど。(私がスタブを排除していないこと自体はここをご参照下さい。)要は、112.68.50.109さんやここで書かれている他の方々のように(多分)理想とルールの折り合いが分かる方ばかりじゃないので、ルールとしては除去されても文句を言えないように出来ているのだと思います。運用の理想を言えば即時除去しないで要出典を付けるのがベターだと思いますが、それに甘える利用者ばかりになってもなーというのがホンネですね。--ろう(Law soma) D C 2011年1月31日 (月) 09:19 (UTC)[返信]
Wikipedia:即時削除の方針「定義になっていない、あるいは文章になっていないもの」ですが、それ誤訳ですね。さっさとなおした方がいい。その例文のあげかたみても明らかですが、それトピック、主題が確定していないので、項目として成立するわけがないので即時削除「してもよい」という条項です。その誤訳まだ放置されていたのか。主題が確定してない項目は成立するわけない、ってのと、定義になっていないとかいうのは意味が違う。故に、そのスタブを削除せよというルールはない、しかし、、、という部分、そこ僕が伺った、論拠はなんですか?の説明にはなっておらないです。そして、そのトピックが確定してないから即時削除っていう極めて道理がはっきりしていることと、今この出典うんぬんの話と関係ないですからね。それにね、主題が確定してるサブスタブ以下の項目が増えて何が困るのか、まだ僕には正直、ほんとうに正直さっぱりわからないんです。それだからどういう方針根拠があるのですか?あなたが唯一だされたその即時削除条項は当てはまらないと今指摘させていただきましたが、もうちょっとおはなし聞きたい。何が悪いんです?--112.68.50.109 2011年1月31日 (月) 11:15 (UTC)[返信]
情報の正確さにこだわりすぎると、記事の発展を阻害してしまうという考えには一理あると思います。ただ、僕は最近違う考えを持っています。それは、ウィキペディアの記事が役に立つものでなければ、読者の関心を引くことができず、編集しようとする人も少なくなってしまうのではないか、ということです。
もしある人がウィキペディアで調べ物をしようとしたのに、役に立たない、あるいは信頼性の低い記事しか読むことができなければ、関心を持ってもらえなくても仕方がないでしょう。むしろ記事自体ないほうが、一から書ける分やりやすいかもしれないのです(「大胆な編集は必要」とはいえ、他人の記述を書き換えるのは勇気がいることだからです。役に立たないスタブが好まれないのもそういった理由でしょう。)。ですから、ウィキペディアが質・量ともに優れた百科事典であるためには、質の部分も追求していかないといけないのだと考えています。--有足魚 2011年1月31日 (月) 13:14 (UTC)[返信]
ウィキペディアの記事が役に立つものでなければ、読者の関心を引くことができず、編集しようとする人も少なくなってしまうのではないか これについて、おおかた削除に熱心な利用者が、おおよそこのように考えているというのは、まあ容易に想像がつきます。しかし、情報の正確さ、というより上で指摘した100%幻想の根本的な誤りっていうのは基本方針、プロジェクトの原理から明らかであるが、その今おっしゃった「僕は最近違う考えを持っています」っていうのは、それ方針のどこにもない。まさに「僕は違う考え持ってる」という風になる。このプロジェクトがなんたるか、って話でこれこれこういう方針があるじゃない、だから猶予を設けず削除が正当化されるという路線の話を突き詰めると、上でもそうでしたけど、たいてい「僕は最近違う考えがある」みたいな漠然としたですね、基本方針にもない、その危惧される現象が果たして本当に起きているのか追認不可能な言説ばかりでてくる。結局のところ、今、有足魚さんがおっしゃった「違う考え」っていうのは、基本理念と矛盾する100%正確幻想の誤りについて「一理ある」と軽んじ、100%幻想を正当化する論理構成になっている。そしてその正当化にはさほど確かな論拠も確認できない。どうも独自理念のようだ、ということです。 むしろ記事自体ないほうが、一から書ける分やりやすいかもしれないのです(「大胆な編集は必要」とはいえ、他人の記述を書き換えるのは勇気がいることだからです。役に立たないスタブが好まれないのもそういった理由でしょう。) サブスタブ以下のものならば、その定義どおり、それは主題だけ確認でき、出典もなく、分量も少ないのに、それを大胆に全部書き換えることに何の勇気がいるのか、正直さっぱりわかりません。もしよろしければ、その具体的なサブスタブ記事について例示していただけませんか?なんでそれがあるよりないほうが好ましいと思うのか、具体例で議論できたら有意義だとおもいますよ。--112.68.50.109 2011年1月31日 (月) 18:50 (UTC)[返信]
思うに
  1. 加筆者/修正者が自信のある分野の記事であれば、従来記述がどの程度正確であるか、独自研究的であるかをある程度判断することができると思いますし、さらには他者が少ない(他者衝突が少ない)記事においては、それが独りよがりの自信でない限りにおいては、大胆に編集しても大丈夫でしょう(参考)。大丈夫だったかどうかは、編集後に他者からの異論や指摘がないことで判りますし、自信がそこまでないなら、ノートで事前に意見を求めておくと、より安心して編集できると思います(参考)。
  2. 大胆に編集といっても、既存の記述を触らなくてよい、つまり大胆に加筆という場面では、従来記述を気にせずに書けるでしょうから、これまたそれほど困ったことはないでしょう。とくに、データ記事に対して第三者評価を加筆するようなケースにおいては、節が独立しているはずですし困ったことはないと思います(あまりいい例はなく、他者に直してもらった加筆ばかりなので、例示は省略)。リダイレクトからの記事作成(参考)のような場合も同様でしょう。
  3. 記事主題に対してある程度は知っているものの、広範囲に深く知っているわけではない記事の編集(参考)の際には、やや苦労しました。というか、独自研究的に見える既存の記述を除去してよいものか判断つきませんでしたし、記述を残すと加筆部分と従来記述の整合性の点で疑問な部分が多かったからです。さらにはその加筆時点では削除依頼に対して削除票4票という状況で数日経過している状況でしたから、すぐにも削除される可能性のある状態であり、取り急いででも加筆の必要がありそうに思えましたから、時間を掛けて文章を練るわけにもいかず。何度か分割して加筆しましたが、結局現時点の最新版における概要節の冒頭段落は独自研究のような気がしていますが、未だに除去が適切であるかどうかの判断は付いていません。
と例示しながら分類分けして書きましたが、スタブでも、従来記述が独自研究的なものをほとんど含んでいない状態で、後の編集者に加筆を託しているようなケースでは、(読者視点ではなく加筆者視点で)さほど問題はないように思います。しかし、従来記述が独自研究的に見える場合、その記述の独自研究性を適切に判断できるところまで編集者のハードルが上がってしまう、というのが問題ではないかと思います。後の編集者から見て「やはり独自研究なのか、自身の不勉強故に独自研究的に見えるのかが判らない(それを判断できる出典も付いていない)」というのがまずいのではないかと。その独自研究性を判断できる程度にその記事分野に自身のある編集者、気にせずバッサリ除去できる編集者、気にせずサクッと削除依頼提出できる編集者、だけに編集可能な人が限られてしまうのではないかと。大胆に加筆ならともかく大胆に編集という場合には、場合によっては従来記述を否定あるいは除去する必要もあるわけで、他者記述を否定するにはそれに見合うだけの根拠が必要と私は考えるのです。そこで、出典がないということを根拠とする人もいるでしょうけど、深くまで知らない分野の記事編集において、私はそこまで大胆になれません。--NISYAN 2011年1月31日 (月) 23:32 (UTC)[返信]
112.68.50.109さんのご発言の中でも
> いきなり除去するのは、それは情報追加した編集者を挑発するためにするのだろうか?その行為によって「この記事には不備がございます、出典をご存知の方はふるってご参加ください、正確度を担保してください」というプロジェクトならではの呼びかけが、二者間の闘争に矮小化されてしまうわけだ。
という部分が理解できません。いきなり編集除去することを挑発と受け止めたり、その除去をことごとしく問題にするほうが、「二者間の闘争に矮小化」していると私は思うのですが。
あと、なぜそんなに上から目線なのか疑問です。--mizusumashi(みずすまし) 2011年1月31日 (月) 16:50 (UTC)[返信]
 「いきなり編集除去することを挑発と受け止めたり、その除去をことごとしく問題にするほうが、「二者間の闘争に矮小化」していると私は思うのですが。」だってね、mizusumashiさん、「執筆者間で争いになった場合のことを想定して・・・いまだ意見の対立が現れていない状況で出典がついていないことだけを理由をいきなり除去するのは、不意打ちじみていて好ましくない、と理解することも可能だろう」 という風にご自分で「想像をめぐらして」そう問題設定をした上で しかし、いきなり除去してもそのこと自体によって意見の対立が明らかになるわけで と、この節において「二者間の闘争への矮小化」の正当化をされてるわけだ。「執筆者間で争いになりかねない範疇のやり取りにおいて、不意打ちじめていて好ましくない、と理解することも可能な行為であり、意見の対立を明らかにする目的をもって自覚的にそれをする」それ挑発行為でしょ?違うんですか? 
あと、なぜそんなに上から目線なのか疑問です。 ご自分の参加姿勢について、名指しで発言を引用されて否定された事に起因する単なる感情的な反発であるのは見ればわかるし、論旨とは関係ない。それも議論を個人批判レベルに貶め矮小化する行為。誰であっても、こういう議論において、僕の目線を批判される筋合いなどはないと想いますよ。 --112.68.50.109 2011年1月31日 (月) 18:50 (UTC)[返信]
前段について。第一に、いきなりの除去について、意見対立を明らかにすることが目的だ、とまでは私は申し上げてはいません。いかなる目的であれ、除去によって意見の対立が明らかになる、と申し上げているだけです。実際のところ、一般論としては、そう考えるほかないでしょう。第二に、ある方針のある理解も可能であるということを多分に顧慮しなかったからといって、挑発とまではいえないでしょう。可能な、あるいはそれなりにはもっともな理解に限ったとしても、多様な方針の理解すべてを考慮し、その可能な理解のすべてに反しないように行動しなければそれは挑発だというのでは、あまりに統制的な行為規範というものでしょう。
後段について。112.68.50.109さんの個性ということであれば、なるべく尊重したいと思います。失礼いたしました。--mizusumashi(みずすまし) 2011年2月1日 (火) 15:38 (UTC)[返信]
 「挑発だとまではいえないでしょう」という主張について。まず、この節の問題提起についてもう一度ちゃんと確認してみましょう。
《出典を示す責任は、ある編集を行った執筆者、またはその編集を残すことを希望する執筆者にあります。》以下の文章はその通りで全く問題もないし、解釈に違いも出ないでしょう。しかし、問題は次の段落で、《信頼できる情報源を欠く編集は、除去されるのもやむを得ません。》の部分です。その後に、出典のない文章を削除すると異議を唱えられるかも知れないので、その場合は当該記述をノートページに移すなり出典要請タグを貼付することが推奨されています。それにも拘らず、引用した文章を拡大解釈してしまうのか、出典のない記述は削除してよい、或は削除すべきだと考えて行動している編集者が少なからずいるようなのです。
それに対して、mizusumashiさんは、
Bokemiannさんはさかんに「拡大解釈」とおっしゃられていますが、Wikipedia:検証可能性(WP:V)はまさに「出典のついていない記述は編集除去していよい」と定めており、それが正当な解釈なのだと私は理解しています。
というように、Bokemiannさんの問題提起は、特に問題視するに値しないと反論しておられる。それでよろしいですよね。ここまで大前提の確認。
僕、今回、あなたが何故、それが問題視するに値しないと考えておられるのか、結構誠心誠意といえば大袈裟になるけど、ちゃんとそのコメント読んで論拠を探ろうとしたんだけど、正直意味がよくわからないんです。ぼやっとわかったのは、その今回の問題提起者がですね、問題提起してるコアの部分、つまりその「除去されるのもやむを得ません。しかし」が但し書き、と留意、配慮について即座に言及、牽制されている要点を無視してButの前段だけ都合よく抜き取って拡大解釈してくれるなよ?という事について「そんなことはどうでもいい」と言ってるだけにしか読み取れないんですね。もしそうじゃない、って言うのならば、ちゃんともう一回、そのBut以下を無視して都合よく削除行為のために拡大解釈してるわけではない!って言うだけのしっかりとした論拠を示して立論、反論しなおしてくれませんか?せっかく問題提起者が本質的かつ大事なことを骨おって提起したのに、あの程度のコメントで納得出来る人など多分いないとおもいますよ?
さて、もっと具体的に見ていこう、その方針条項のBut以下の部分、二つ意味があります。
ひとつめ。Wikipedia:編集方針。これ結構根幹の基本方針だ。最も大事なことは、それが直せる限りは直すと言うことです。望み薄の文章については、目障りな記事を対応するノートページに移動したり、明らかに救いようのない記事は何でもすぐに削除する慣例になっています。ただし、後者は軽率に行うべきではありません。くりかえします。ただし、後者は軽率に行うべきではありません。これ、問題提起者が言ってることと同じ。「除去されるのはやむを得ないケースもあるが、しかし、But」の部分。
同時に、この同じページに、他の人が書いた情報(意味内容)は保存するよう努めてくださいという見出しがある。そこに除去「してもよい」要素として「検証不可能な内容」があるが、そのすぐ下に、でもやっぱり保存するように努めてね、と代替手段がリストされている。
この論点について、僕は上でもざっくりプロジェクト原理を俯瞰しながら、100%正確幻想を満たすために、手当たりしだい安易に削除っていう行為にでるのは間違っていると立論しました。それを正当化するmizusumasiさんのコメントも引用して批判もしました。そして、mizusumashiさんからは、それについて反論は頂いておらない。反論はない、それは理解共有しているということでよろしいのですね?
次にふたつめ。ひとつめの論点と厳密に概念的に区分けするのはちょっと微妙だけど、その情報追加者への心理的配慮ってことです。最初のコメントでmizusumashiさんが書いていた「不意打ち好ましくない」とかいうやつ。もしも出典を示す機会を与えずに記述を除去すると、異議を唱える人がいるかもしれません。原文ではこうなっている。これね、要するに、まさに「不意打ち」。ノートで、これ出典ないなあ、と一般に広く問いかけ、議論し、出典タグ出すまえに、いきなり削除者の思い通りに「実力行使」するわけだ。意見の対立があるだろうってわかってるのに。そういうこともあるので配慮しましょうね、っていう但し書きなのに、その配慮なく意見対立が明らかになるんだしいいだろ?っていきなり思いどおりの実力行使しちゃうこと、これなんども繰り返すけど挑発じゃなくて何なんです?ワンステップ置きましょう、猶予を設けましょうという注意を無視して実力行使するって、それ挑発の定義そのもの以外のなにものでもない。故にあなたの言ってること僕理解できない。まったくね。
それにmizusumashiさん、あなたは管理者でおられるようだ。ファシリテーターとしての役目が要求される利用者が、そういう編集者の配慮の但し書きを軽視して、実力行使にいきなりでること、挑発行為を正当化するって、そんな体たらくでどうするんです?この部分、実際編集合戦になる可能性高いですよね?出典を求めるというプロジェクトにおける順当な整理プロセスが二者間の闘争へと矮小化。編集合戦を事前に回避するワンステップ設けようとする但し書きを軽視し、自分の削除すべきという信条を押し通すことをとりあえず正当化。こんなもんは認められない。現にこの問題提起者のように日頃から鬱憤たまりまくってる利用者は少なからず存在するようだ。僕もこうやって手間暇かけてこういう議論に参加するのは、問題提起者と志を共にするからだ。
最後に、このファシリテートと絡んで後段の論点。112.68.50.109さんの個性ということであれば、なるべく尊重したいと思います。 これ個性尊重してほしいとお願いしたわけではありません。まじめに議論しようとしているのに、論旨の関係のない「お前は何様だ?」みたいなこと言い出したら個人攻撃の応酬になるのは明らかでしょ?そういうことをして議論妨害でもなさりたいんですか?と牽制したんです。議論妨害をするなとね。--112.68.50.109 2011年2月1日 (火) 20:01 (UTC)[返信]
明らかに私への質問・要請だと思える部分と、明らかな事実誤認だと分かる部分についてのみ、コメントいたします。
> Bokemiannさんの問題提起は、特に問題視するに値しないと反論しておられる。それでよろしいですよね。
おっしゃっている意味がよく分かりませんが、分からないということは、この場合たぶんよくないのでしょう。
> もしそうじゃない、って言うのならば、ちゃんともう一回、そのBut以下を無視して都合よく削除行為のために拡大解釈してるわけではない!って言うだけのしっかりとした論拠を示して立論、反論しなおしてくれませんか?
もともとのBokemiannさんの問題提起は次のようなものです(ただし強調は私によるもの):
> しかし、問題は次の段落で、《信頼できる情報源を欠く編集は、除去されるのもやむを得ません。》の部分です。その後に、出典のない文章を削除すると異議を唱えられるかも知れないので、その場合は当該記述をノートページに移すなり出典要請タグを貼付することが推奨されています。それにも拘らず、引用した文章を拡大解釈してしまうのか
対して、Wikipedia:検証可能性#出典を示す責任は掲載を希望する側に(2011年1月4日版)に書かれているのは、次のような文章です(ただし強調は私によるもの):
> 信頼できる情報源を欠く編集は、除去されるのもやむを得ません。しかし、もしも出典を示す機会を与えずに記述を除去すると、異議を唱える人がいるかもしれません。情報源を欠く記述について情報源の明示を求める場合、その記述をノートページに移動するとよいでしょう
このWP:Vの文章を奨励だと理解するとしても、それがたんに「出典のない文章を除去」場合、「出典のない文章を除去すると異議を唱えられるかも知れない」場合にすべからく奨励していると読むことは無理があります。
文章どおり「情報源を欠く記述について情報源の明示を求める場合」に奨励されていると読むか、あるいはせいぜい「出典のない文章を除去すると異議を唱えられるかも知れない場合で、かつ情報源を欠く記述について情報源の明示を求める場合」に奨励されていると読むほかないでしょう。
> そして、mizusumashiさんからは、それについて反論は頂いておらない。反論はない、それは理解共有しているということでよろしいのですね?
よくありません。私が同意しない点について、すべからく反論する義務が私にあるわけではありませんから。
> それにmizusumashiさん、あなたは管理者でおられるようだ。
私は管理者ではありません。
以上。--mizusumashi(みずすまし) 2011年2月2日 (水) 12:55 (UTC)[返信]
>おっしゃっている意味がよく分かりませんが、分からないということは、この場合たぶんよくないのでしょう。
えー、なぜ意味がわからないのかわかりませんね。この問題提起について、どういう考察をし、どういう立場であるのか、って明確にするのは建設的な議論に不可欠だと思うのですがね。本問題提起の本旨は「拡大解釈である」ということに、あなたはまず最初に「そうではない」という趣旨のことを書いているのだから、それ「問題視するに値しない」ということと等価でしょ?違うんですか?違うならば、それも意味わからないけど、違う理由を説明してください。
>文章どおり「情報源を欠く記述について情報源の明示を求める場合」に奨励されていると読むか、あるいはせいぜい「出典のない文章を除去すると異議を唱えられるかも知れない場合で、かつ情報源を欠く記述について情報源の明示を求める場合」に奨励されていると読むほかないでしょう。
あなたの「読むほかないでしょう」とかいう解釈は完全に間違い。やっぱそういう人が普通にこうやって観察される以上提案者のいうようにそれ書きなおしたほうがいいですね。これでもこの問題提起の妥当性と書きなおしの提案の妥当性が確認できる。あのね、僕上で、ちゃんとWikipedia:編集方針について引用して、ちゃんと説明さしあげたのに読まれなかったんですか?瑣末な反論できそうな反論のための反論みたいな部分にだけ反応しないで、ちゃんと本旨を読んでくださいよ。
(再掲)
ひとつめ。Wikipedia:編集方針。これ結構根幹の基本方針だ。「最も大事なことは、それが直せる限りは直すと言うことです。望み薄の文章については、目障りな記事を対応するノートページに移動したり、明らかに救いようのない記事は何でもすぐに削除する慣例になっています。ただし、後者は軽率に行うべきではありません。」くりかえします。「ただし、後者は軽率に行うべきではありません。」 これ、問題提起者が言ってることと同じ。「除去されるのはやむを得ないケースもあるが、しかし、But」の部分。
同時に、この同じページに、他の人が書いた情報(意味内容)は保存するよう努めてくださいという見出しがある。そこに除去「してもよい」要素として「検証不可能な内容」があるが、そのすぐ下に、でもやっぱり保存するように努めてね、と代替手段がリストされている。
この論点について、僕は上でもざっくりプロジェクト原理を俯瞰しながら、100%正確幻想を満たすために、手当たりしだい安易に削除っていう行為にでるのは間違っていると立論しました。それを正当化するmizusumasiさんのコメントも引用して批判もしました。そして、mizusumashiさんからは、それについて反論は頂いておらない。反論はない
(再掲ここまで)
これは、あなたの「と読むほかないでしょう。」が何故まちがってるのか?説明した部分だけど、読まれなかったのでしょうか?これについて有効な反論もせずに、また同じこと繰り返してる。
>このWP:Vの文章を奨励だと理解するとしても、それがたんに「出典のない文章を除去」場合、「出典のない文章を除去すると異議を唱えられるかも知れない」場合にすべからく奨励していると読むことは無理があります。 無理なんてないですね。だって上に示したようにWikipedia:編集方針でざっくり限定条件などつけずに、包括的にそう書いてるじゃないですか。だからその部分はWikipedia:編集方針の理念に準拠し踏襲しているもんなんですよ。


>よくありません。私が同意しない点について、すべからく反論する義務が私にあるわけではありませんから。
結構です。同意されないという内心については理解しましたよ。 あなたの不同意は内心に留まり、その不同意が合理的に正当化されていると示す有効な反論として示されてはいない。つまりあなたの不同意は本議論においてなんら考慮する対象にはならないということです。万一、反論もせずに不同意であるとだけ表明し合意を阻むのであれば、それは「いつまでも納得しない」という態度であり、単なる嫌がらせであり議論妨害に等しい。念のため。いずれにせよ有効な反論がひとつもないという状況に変更はありません。
>私は管理者ではありません。
了解です。わたしの勘違いです。ただし、挑発、編集合戦の誘発についての批判は管理者であるないに関わらず維持します。よくないですよね?って指摘した部分はちゃんと考慮していただく必要はあるのですよ。--112.68.50.109 2011年2月2日 (水) 14:35 (UTC)[返信]
もちろん、Bokemiannさんが否定的なニュアンスで「拡張解釈」だとされたことについて、私はそれは正当な解釈であると主張していますが(そのはずですが)、それがなぜ、「Bokemiannさんの問題提起」を私が問題視するだとか、逆に問題視しないだとか、あるいはそう主張するだとかということになるのか、やはり分かりません。
その余の点についても、112.68.50.109さんと一対一で話し合っていても合意には達せそうにありませんから、私からは、ここの議論を読んでいる第三者各々に判断を任せたいと思います。--mizusumashi(みずすまし) 2011年2月2日 (水) 15:27 (UTC)[返信]
「問題提起」されているトピックについて、問題提起者と同調的に問題視するのか、それとも同調せず彼の問題視している対象は問題とするに値しないとするのか?という意味のことちゃんと書いてるはずですけどね。この問題提起者の問題提起について、あなたは不同意を示したが、その合理性は確認できない。僕は個別にあなたのその主張に対応して立論しましたが、それに対するあなたによる有効な反論は存在しない。合意するも何も、僕はボールを投げたけど、あなたからボール投げかえって着てない、反論ないみたいなんで、内心が不同意であろうと、もう議論から徹底してしまった、あなたの主張について僕が否定した合理性のみが残った状態。いやそれ合理的な立論じゃないってのがあればいいですよ?あなたにせよ他の人にせよ、それないわけです。mizusumashiさんは、合意を探る建設的議論から撤退した状態。--112.68.50.109 2011年2月2日 (水) 15:47 (UTC)[返信]


ああ、念のため、というか一番大事なことですが、今回の提案、Wikipedia:検証可能性(WP:V)の文書の書き換え、全面的に翻訳しなおしたほうがよいし、特に、提案者が指摘する、「出典を示す責任は掲載を希望する側に」の箇所。僕が先に説明申し上げたように、ざっくりWikipedia:編集方針のプロジェクト根本理念=情報保存指向が前提になっておるのに、ご覧のようにそれが「どれほど意味があるのだろうかと疑問に思う」「どうでもよい」的に、あたかも「おまけ」の如くめちゃくちゃ軽視されて、「除去されるのもやむを得ません。しかし」の前段のみが、どうも基本方針とおもいっきり矛盾する独自理念により不条理に強調かつ拡大解釈されている状況がまかりとおっているのはこの節の議論でも明らかに追認できるので、そこは思いっきりWikipedia:編集方針のプロジェクト根本理念=情報保存指向について強調しながら記述をコントロールしたほうが良いと思います。管理者レベルの常連利用者ですら間違ったベクトルで勤しみ、提案者が提示するような無用な編集合戦、論争になっている元凶である、と僕もつよく同意します。もちろん、この節においてさらに議論を深めたいのですが、今のところ有効に反論というのは僕はひとつも確認できません。あらかじめ、先にこの提案に賛成の意向を明確にしておきます。--112.68.50.109 2011年2月1日 (火) 21:35 (UTC)[返信]

Wikipedia:編集方針にある「他の人が書いた情報(意味内容)は保存するよう努めてください」の節には、確かに情報を保存することについて書かれています。しかし、「記事の一部でも除去するときは、以下の理由に該当するものにしてください。」という記述の後に「検証不可能な内容」が理由として挙げられている事は、「編集方針」が「検証可能性」に基づく除去を認めていることを示しています。また、「完璧でなくてもよいのです。編集を楽しんでください。」の節では「不完全な記事を投稿することも歓迎されるべきです。」とありますが、その直前に「ウィキペディアの基本方針とガイドラインに反しないものであるならば」と前置きされています。つまりこれは、「編集方針」が方針やガイドラインに背く記述を認めるものではないということです。
また、「編集方針」はウィキペディアの方針のひとつであり、「検証可能性」のような他の方針に対して優越するものではないことにもご留意ください。--有足魚 2011年2月2日 (水) 10:58 (UTC)[返信]
ですからね、なんで「しかし、「記事の一部でも除去するときは、以下の理由に該当するものにしてください。」という記述の後に「検証不可能な内容」が理由として挙げられている事は、「編集方針」が「検証可能性」に基づく除去を認めていることを示しています。」で終わるんですか?という話をこの節では延々としているわけです。その後に、情報を残す代替手段がしっかりリストしてあることは何故今回も無視されているのか?それ自分に都合のよい情報だけを抜き出し、その後にある留保条件を無視する言動であり、故に拡大解釈であると批判されているのですよ。この部分は看過できません。なぜ無視したのか、しっかりお答えいただきたい。
次、「編集方針」が方針やガイドラインに背く記述を認めるものではないということです。について。論理的におかしい。間違っている。このプロジェクトは実際方針がカオスでありきちんと整合的に整理されていないのは、まあ創始者の資質によるところが非常に大きいと僕は思ってますが、結局、すべての方針は相互矛盾を抱えながら、相互に牽制しあい、運用者がバランスをとって判断するしかないような組み立てに仕上がっています。これを踏まえて、今その有足魚さんのものの言い方だと、まるで、「編集方針」が検証可能性の条件(この場合意図されたのは削除を正当化する部分でしょう)に抵触する部分は認めないと積極的否定、みたいになってますが。それは詭弁であると強く否定。実際のところは、検証可能性のなかで「編集方針」を参照して配慮せよ、という意味になってることは上で示したとおりです。つまり編集方針を基本にてそれに準拠しているのは明らか。そしてこの節の問題提起とは、「検証可能性の一部の条項の前段だけ」が「編集方針」に優越するように拡大解釈されて運用されているという現状がおかしい、という批判です。--112.68.50.109 2011年2月2日 (水) 11:55 (UTC)[返信]


Wikipedia:編集方針  Wikipedia is a work in progress: perfection is not required 「ウィキペディアとは途上の作業。完璧さは必要としていない。」 と英語版引用しましたが、100%幻想の否定など、これはWikipediaプロジェクトの概念定義をし、根本理念を示す文書であるのは明らかです。 そしてこの文書は根本的かつ包括的な基本方針であるがゆえに「当然」中立的な観点、検証可能性、独自研究は載せないの記事における三方針についても言及しています。 ウィキペディアの方針のひとつであり、優越するものではない、という言葉が有足魚さんから出ましたが、優越するものだと思いますよ?優越という概念が不適切であるならば、より基本的で包括的な方針だ。 そして、全体的に寛容さが強調されているのがこの文書の主題であるが、そのひとつ「他の人が書いた情報(意味内容)は保存するよう努めてください」というものがあり、主題が細分化されている。 この主題のなかで、ですから、何をするにせよ、他の人が書いた情報(意味内容)は保存するよう努めてください。記事の一部でも除去するときは、以下の理由に該当するものにしてください。と、除去可能な要素として限定列挙がある。これ限定して牽制しているんですよ。この一部にWikipedia:検証可能性がリストされており、積極的それをせよという意味ではありません。やってもいいが、それに限れよということ。そしてさらにご丁寧にその直後にまた、除去する代わりとなる方法は次のような方法があります。とその限定された削除許容要件の回避手段までリストされている。

Wikipedia:検証可能性 信頼できる情報源を欠く編集は、除去されるのもやむを得ません。しかし、もしも出典を示す機会を与えずに記述を除去すると、異議を唱える人がいるかもしれません。情報源を欠く記述について情報源の明示を求める場合、その記述をノートページに移動するとよいでしょう(移動の際は、Wikipedia:ページの分割と統合#一部転記の手順 に従って履歴の継承を行ってください)。または {{要出典}} 、{{要検証}} 、{{}} 、{{出典の明記}} 、{{未検証}}などのテンプレートを貼ることもできます。

 除去されるのもやむを得ません。しかし、もしも出典を示す機会を与えずに記述を除去すると、異議を唱える人がいるかもしれません。情報源を欠く記述について情報源の明示を求める場合、その記述をノートページに移動するとよいでしょう

これが本問題提起において拡大解釈され独自思想で運用されていると問題視されている条項であり、この除去されるのもやむを得ません。しかしというわかりやすい日本語が「まるっきり無視されている」箇所ですね。やむを得ない、だけど、ていう文書において、これがあるんだから、削除上等だろ!とする方々、僕は本当に意味がわからないんです。何故そういうことをするのか?どういう理解なのか?これ、この節において、その不条理な行動あるいは独自思想を擁護し正当化し続けている方々にもお伺いしているのですよ。

そしてね、この記述はWikipedia:編集方針の部分的削除許容(部分的な即時削除推奨ではない)限定列挙のうちのひとつであり、その「編集方針」に準拠する形で、回避手段、猶予についてしっかり反映しているわけです。

以上が全体像の俯瞰であるが、この全体像がですね、なんと、削除可能要件として牽制的に限定列挙されていたWikipedia:検証可能性のうちの一部の項目の前段のみが抜き取られ、あとはまるっきり無視でスルーっていうのが実態です。さて有足魚さんは、なぜ文書の構造とかそういうのにまったく頓着せず、文章の一部だけ拾い集め、その一部から再構成した全体像とまるで真逆の方針を創り上げてしまうのか?これ結構、僕は不自然に思うんです。だって順当に読み進んでいって、意図的に留保条件とか無視しなければ、順当に主題も意味もわかるはずではないのか?なんでそういう人ばっかりが多いのか?--112.68.50.109 2011年2月2日 (水) 12:48 (UTC)[返信]

「編集方針」は代替手段を用いることを命じているわけではありません。除去するのか、他の手段を用いるかは編集者が選ぶことであって、どのやり方も禁止していません。もちろん、他の編集者のやり方に異議があれば差し戻すこともできますし(編集合戦はいけませんが)、ノートで議論して合意に達すればそれが最もよい結果でしょう。
方針の解釈だって編集者同士で差はあるでしょう。自身の解釈論を述べたところで、それで相手が引き下がってくれるとは限りません。大切なのは個別の記事で問題が起こったときに、じっくりとノートで議論して合意を作ることだと思います。当事者だけで意見がまとまらなければ第三者を加えることも必要でしょう。そういった実例があれば、方針の解釈を統一する、あるいは現状にそぐわないから改定するといった議論も提起しやすくなるでしょう。--有足魚 2011年2月2日 (水) 13:47 (UTC)[返信]
今話していることですけど、これは「命令」とか「禁止」とかの話ではないですね?「編集方針」の主題とは寛容であり、その中で情報を保存することへの強い推奨であるが、「これこれこういう要素は、主題に反する例外として限定的に認められる」という文書を有足魚さんは、まるで削除の積極的正当化みたいに、取りあえげられましたね?なぜそんなことをされたのですか? それ情報保存という主題のなかにある例外的限定許容リストの代替手段であり、主題からすればそれを十分検討してくださいね、という推奨であるのはあたりまえだと思うんですが、それをなぜ「命じているわけではありません」みたいに意義の無効化を図るのか?ここ理由を説明してください。有足魚さんの言説を伺ってると「編集方針」の理念は一切効力を持っておらない、まるでその理念をリスペクトしておらず、命じているわけではない、とか、除去を認めていることを示しています、とか、なんというか、主題にはまるで頓着せずに、主題がその理念と対立する除去行為について限定列挙し牽制している部分ばっかり強調されていますね?主題を軽視し、例外的な言及ばかりピックアップして強調されている理由は一体なんですか?「編集方針」の寛容さ、削除への牽制、限定について、なるだけ無効化しておきたいという独自思想でしょうか?
この問題提起とは「ここのこの方針の部分にこうあるんだから削除して正当だ」と強弁し、それは単なる「除去されるのもやむをえません」しかも付帯条件つきまくり、牽制されまくりである行動なのに、その牽制、それはがばっと上からざっくりかぶさってるものであるが、それについて一切無視している行動を問題視しているわけです。これについて、問題意識を共有されないのですか?されないとしたら何故でしょうか?--112.68.50.109 2011年2月2日 (水) 15:02 (UTC)[返信]

うーん、これしっかり議論つめていくと、どうも一部か大勢か知らないけども、Wikipedia:編集方針なんていうかなり根本的な理念文書、方針について尊守するつもりがあるのかないのか?っていうかなり根深い話であると思えてきました。僕はこれ、このプロジェクトを大樹とすると根っこの部分であると普通に捉えてますし、三大方針にせよなんにせよ、それは幹の部分であり、そこで詳細に書かれてる項目、今回の項目もそうだけども、その根っこに当然根ざしており、準拠しており、反映していると思うのだけども、どうも話を詳しく聞いていくと、それは方針のひとつに過ぎず優越するものではないとか、意味があるのかわからないとか、常にそういう牽制的、抑制的な推奨と読むには無理がある、とか、そういう言及ばかりでてくる。Wikipedia:編集方針を示したあとでも、その本旨の正当性についてリスペクトするどころか、その例外限定条項、それはあって当然ですが、そこばっかり強調して理念に同調する態度は取るつもりはなさそうだ、と再確認させられ、挙句の果てに理念に基づく代替手段について、それを選択せよという命令ではないだろうという答えが帰ってくる。根っこを掘り返すような利用者さんが多いですね。大丈夫ですか??--112.68.50.109 2011年2月2日 (水) 15:18 (UTC)[返信]

多くの編集者の方々は、状況に応じて手段を使い分けているということでしょう。つまり、検証可能性の満たせない記述に対しては、内容があまりにもひどければ除去し、そうでなければテンプレートを貼って様子を見るなり、ノートで議論を提起するということです。もちろん、あまりに行き過ぎた記述の除去を行っている方がいれば、そういう行為をやめるように注意することも必要でしょう。「編集方針」が定めているのはそういうことだと思います。
「編集方針」は方針やガイドラインに反する記述まで保存することを求めるものではない、というのが僕の解釈です。問題のある記述を除去できなければ、「検証可能性」やその他の方針を守ることができないからです。もちろん、112.68.50.109さんが違う意見をお持ちになる事は構いません。ただ、繰り返しになりますが、それで相手が納得するとは限らないと言うことです。自身の意見が受け入れられないことを嘆くばかりではなく、自分の方から歩み寄ることができないか考えることも大切なことだと思います。--有足魚 2011年2月2日 (水) 16:01 (UTC)[返信]

Wikipedia:編集方針について、もうちょっと補足しておいたほうがいいですね。 英語版の対応する「編集方針」の右のBOXみていただければわかりますが、これ「Conduct policies」=「行動指針」なんです。有足魚さんはひとつにすぎない優越するものではない、とかおっしゃるが、これはまあ編集合戦するな、とか、コンセンサスとか、そういう超基本的な行動指針のひとつ。あなたがいう「方針やガイドラインに反する」とか意図されるのは、この場合三大編集方針のひとつの「検証可能性」ですが、これは「行動指針」にたいして「記事掲載基準」なわけです。前者と後者の毛色の違いは当然おわかりになるとおもう。前者の対象は、我々コミュニティの参加者だ。後者の対象は記事だ。行動指針てのは行動指針なのだから、ちゃんとそれリスペクトしてもらわないと非常に困るわけですよ。有足魚さんの言動からは、その超基本的な行動指針をリスペクトしようとか同調しようとか習おうとかそういうのが一切感じられないのです。ここまずお聞かせ願えますか?この行動指針を尊守するともりがおありになるのかどうか?些末は結構です。この行動指針の主題、本旨を読み理解しその理念に習うつもりがあるのかどうか?ここ是非まず確認したいんです。そんでね、行動指針、なるだけこういう姿勢で望めよ、っていうのが、しっかり守られたらですね、この問題提起のような事は起こらないし、僕もたっぷりとこうやって夜遅くまで時間割いてですね、その通りだ!みたいな事にならないわけなんです。で一方で、あなたのように、それは大したことはないみたいな、事を強調する、僕にはそうとしか見えないんですけど、そういう方々が複数おられるわけです。その行動指針がリスペクトされ尊守されるのであれば、その検証可能性についての除去可能、かっこつきについてもそのかっこつきの部分が、ここで問題視し、僕が熱心に危惧するように、軽視なんてされてないはずなんです。そうじゃないから、こうやって議論している。僕は、あなたがそれについて何か反対意見を正当化して、それは見解の違いです、みたいにする限り、一切納得するつもりはないし、それは単にあなたが「編集方針」を尊守しない状況について擁護していると見做すしかない。--112.68.50.109 2011年2月2日 (水) 16:26 (UTC)[返信]

あと、念のためですが、僕はあくまでこの問題提起の議題にそって話しておるわけで、それから逸脱した、一般論に逃げられるとこれも困ります。有足魚さん、そこは注意してください。一般論として、除去すべき情報がある、だなんて当たり前のことであり、僕ふくめ、誰一人としてそれに異議を唱えるのものではないし、同時にその「編集方針」のこれこれこういうモノに対しては留意した上で除去も致し方ないけどね、みたいに記述あるのは、同様にあたりまえなんです。僕は今そんな当たり前のことを議論しているのではなくて、この問題提起とされた、超基本的な行動指針から逸脱したね、それは削除して当然だろうとゴリ押しする連中について批判しているわけで、そういう利用者がいるのであれば、勘違いがないようにちゃんと「編集方針」を強調して牽制しておいたほうが好ましいという提案に同意しているわけです。あなたはこれになんか異議がある、というのであれば、僕はあくまで自分の立場の正当性を示すために反論します。一般論で除去していいのもあるよね、みたいな話をしているのではない、ってことをちょっともっかい確認した上で議論してもらえますか?そんなことは誰でもわかってることなので。そしてね、「相手が納得するとは限らない」っていうのが、単なるボーダーラインの記事の議論でなくて、その相手の行動が、行動指針から逸脱しており、説明しても納得しないようであれば、そういう輩はブロック、排除せざるを得ないでしょう。違いますかね?--112.68.50.109 2011年2月2日 (水) 16:36 (UTC)[返信]

なんか御質問に答えるまでもなく複数の方々のご意見により解決していそうですが…、なんか前にも「要は、112.68.50.109さんやここで書かれている他の方々のように(多分)理想とルールの折り合いが分かる方ばかりじゃないので、ルールとしては除去されても文句を言えないように出来ているのだと思います。」と申し上げましたが、112.68.50.109さんやBokemiannさんとmizusumashiさん、有足魚さん(あと勿論私も)とに多少のスタンスの違いこそあれ基本認識に大きな差はないと思います。双方とも、極端を排除せざるを得ない思いは一緒であり、単に見ようによっては矛盾する二面性のある規定につき、どっちが優先するかを話し合っているだけなのですよ。内容がそれほどひどくないのに除去したり、逆に内容がひどくともテンプレートを貼って様子を見たりする利用者がいるという認識を持っているところも同じです。ただ、有足魚さんのおっしゃるように多くの利用者は状況に応じて手段を使い分けていると思いますが、ここで言う「内容のひどさ」は対処しようとする人の主観によっているのが問題なのだと私は思っています。そういう意味ではノートでの議論を除去の前提にするという提案があるならば、検討の価値はあると思います。反面、極端な編集をする利用者を牽制する必要もある訳です。その辺の折り合いなのではないでしょうか?--ろう(Law soma) D C 2011年2月3日 (木) 02:23 (UTC)[返信]
僕は結構そういう、「価値観の違い」や「主観」「バランスの問題」「スタンスの違い」というようにこういう議論を曖昧に決着させるのはかなり乱暴であると思っていますよ。最終的に波風立てないような着地をするためにそうするいうパターンは嫌というほど見かけるが、それは悪習であると考えています。結果それ、問題提起されてるポイントにして問題なしと結論づけ現状維持を図ろうとするアクションなんじゃないですか?そういう欺瞞は僕は認めるつもりはありません。 基本認識に大きな差はない、とかおっしゃるが、現にたとえばですね、上で長々と議論したmizusumashiさん、この問題提起とされる箇所の解釈、間違っているじゃないですか。同意しないとね。Law somaさん、それご覧にならなかったのでしょうか??そういう解釈間違っている、拡大解釈されている文書があるならば、それは間違いであるので、「編集方針」という根本的な行動指針、理念をちゃんと参照してそれに準拠している異議の記述である、とはっきりさせるたほうが好ましいという提案です。ここ、Law somaの口ぶりだと、現状維持を肯定するような流れになりますけど、そういう意図なんでしょうか?事実、拡大解釈であるという痕跡がこの議論でもあちこちに見受けられる。問題提起者にしろ、僕にしろ、いつ「極端なほうへ倒せ」なんて主張したんです?していないでしょ?そうでなくて、現状そういう基本的な行動指針もまるっきりリスペクトする動向もなく、その行動指針の理念より、限定的に言及され抑制的に運用せよと留意的な異議が確認できる検証可能性のなかにある「除去されてもやむを得ない、しかし」という記述、この前段のみがさかんに強調され、根っこの行動指針がどっかにすっ飛んでしまっている、こういう「極端なほうに倒されている」現状を修正しよう、っていう提起なんです。そして、あなたにせよですね、なんか知らんがそれを妨害したいように見える。それは何故ですか?うーん、もっとあなたからご回答がスムーズにいくように質問を列挙すべきかもしれない。でも僕が言いたいことはおそらくおわかりになると思う。もしご回答が不十分である、と僕が感じるのならば、いずれにせよ次のターンで要点を列挙して全員の方に質問してみたいと思います。--112.68.50.109 2011年2月3日 (木) 07:33 (UTC)[返信]

とりあえず、Law somaさんへ、オープンになったままの僕からの質問。これ別に他の人からの回答からにより解決済みであるという認識は僕はしておりません。以下の質問です。本当にもうちょっとおはなし聞きたいのですよ。よろしくお願いします。

主題が確定してるサブスタブ以下の項目が増えて何が困るのか、まだ僕には正直、ほんとうに正直さっぱりわからないんです。それだからどういう方針根拠があるのですか?あなたが唯一だされたその即時削除条項は当てはまらないと今指摘させていただきましたが、もうちょっとおはなし聞きたい。何が悪いんです? --112.68.50.109 2011年2月3日 (木) 07:44 (UTC)[返信]

やっぱり、先に一部書いておきます。 「そういう意味ではノートでの議論を除去の前提にするという提案があるならば、検討の価値はあると思います。反面、極端な編集をする利用者を牽制する必要もある訳です。その辺の折り合いなのではないでしょうか?」

Law somaさんの結論的な言及の抜粋ですが、これね、この提案というか問題提起、「ノートでの議論を除去の前提にする」これは、すでに十分強調されながら強い推奨として方針のなかに脈々と流れている事実は僕は上でこれまでさんざん論証してきたつもりなんですね。この問題提起は、新たに、追加ルールを付け加えようぜ、みたいな事は言っておらない。最初からちゃんとあるルール、「編集方針」という行動指針の牽制がある条件付帯の条項が拡大されて濫用されていますね、これまずいので記述を拡大解釈不能なようにきっちりしましょうよ、ということです。それがなぜ「検討の価値がある」みたいな事になるのか?それはやっぱりあなたが、その行動指針について現状のとおり軽視したままでも一向に構わないと考えておられるからなのではないですか?そしてその考えの理由として後段「反面、極端な編集をする利用者を牽制する必要もある」という考えが根っこに多分ある。後者は前者の確認がしっかりされると都合が悪い対立概念であるので、「その辺の折り合いをつけるために」現状維持でいいじゃないか、という理路なんだろうと想像します。つまりこの問題提起の、これ拡大解釈されすぎだろう、さんざん理不尽な事を言われたり編集合戦になるよ?なんとかしようという極めてまっとうな提案がですね。僕はなぜそれが方針理念的にまっとうであるのか、多大な時間を割いて論証してきたつもりなんですが、それを、まあいいじゃないか、極端な編集をする利用者を牽制したいんだし、と提案を無効化する感じになってるわけです。僕これ違うと思いますよ?方針文書の拡大解釈とそれにともなう乱暴な運用が事実確認されるのであれば、そこはしっかり是正すべきなんです。そこ是正せずに、別のやりたいことをゴリ押しするために、そこの歪みを利用しようなんて、やり方として間違ってるんですね。ここおわかりでしょうか?あなたの主張は要するにそういうことを正当化しようと主張しておられるわけだ。だから僕は断固、納得なんてしないし、この提案者の提案の妥当性は維持され続けているとおもうし、それをまあいいじゃないか、主観なんだし、とかおっしゃられる方々はですね、結構その辺の自己欺瞞に気がつかれたほうがよいとおもいますよ。それ間違ってるんだ。極端は編集者を牽制するのであれば、それは本件とは別個の案件であり、本件における拡大解釈の事象は速やかに修正すべく処置すべきです。その上で、そのまっとうな修正作業が終わってから、別の提案すればよいでしょう。歪みをもって、僕はわたしはこうしたいので、この歪みは逆に都合がいいんだけどなあ、みたいな事でこのまっとうな提案をうやむやにして潰すような所作はやめていただけないだろうか?それば僕がこの議論を通じて、ずーっと心底感じてる正直なところだし、Law somaさんの直近コメントからもそれが追認されることを確認しました。あとこれ「理想と現実」論でもなんでもない。別にこの部分においては方針は整合的にある。ただ理想的でないのは、こういう混乱が幾度も発生する程度に、ちゃんと階層構造やら主従関係が整理されておらないことだ。今回やっぱその辺の文書構造のカオスからこういう拡大解釈が起こってる「現実」があるので、ちょっとでも「理想」に近づけるために、手を入れて整理しましょうよ、ってことです。 --112.68.50.109 2011年2月3日 (木) 08:09 (UTC)[返信]

「要は、112.68.50.109さんやここで書かれている他の方々のように(多分)理想とルールの折り合いが分かる方ばかりじゃないので、ルールとしては除去されても文句を言えないように出来ているのだと思います。

これについて。その主張が「片手落ち」(差別用語かな?)であるのはですね、その言及自体「これこれこういう事情で除去されても致し方ないというようになってるんだけどね」という事情を「分かる方ばかりじゃないみたい」っていうこと。それがこの問題提起の主旨なのです。事情を分かる方じゃないみたいなので「文句言うな、問答無用」とだけ拡大解釈され、ここの問題提起者や僕も含めその他複数の意を同じくする方々が、困ったもんですね、と言っておるわけです。だから、それ「分かる方ばかりじゃないので」分かるように記述直しましょうっていう提案。何か問題ありますか?--112.68.50.109 2011年2月3日 (木) 08:33 (UTC)[返信]

(編集競合になっちゃったんですが)基本的に私に関する貴方の受けた印象について、特段修正したいとは思いません。およそ間違った受け止めではありませんし、多少私の意図したものと違って受けとめられていると思いますが、些細なものです。でですね、なんで同じことを違う面から見ているだけってことに気が付かないんですか?それともご自分の視点からだけが正しいという印象を強めたくて気付かないふりをしているだけなのでしょうか?何か先入観からものをおっしゃているように感じます。で、分かるように直す提案には全く問題ありませんよ。分からない方にも両極端あるので、その点違う見方の利用者も交えてよく話し合いましょう。--ろう(Law soma) D C 2011年2月3日 (木) 08:41 (UTC)[返信]
何故あなたがそういう片手落ちの主張をされるのか?というと、そういう情報追加者については方針の拡大解釈という歪みをもっておおいに牽制することを是とする「文句は言えないように出来ている」と正当化する(なんども説明したように本来はそういう拡大解釈の意味じゃないですけどね)一方で、そういう拡大解釈して困ったもんだ、、とここで複数の利用者が追認する削除オリエンテッドな暴走行為については何の言及もされない。そこはお咎めなし、という構造になっておるわけですね。それ公平じゃないでしょ?なんで情報追加者が理不尽な抑圧受ける部分は仕方ないですまして、理不尽な抑圧している利用者については野放しなんです?そういう不公平な主張をもってですね、この提案はどうでもいい的に、主観の違いだ、みたいに片付けるのは、まったく認めるわけにはいかないのですよ。それは欺瞞であり、欺瞞をもって、意欲的な提案を無効にされる「実質的な反対票」ってのを許容したくないんですね。提案について習うものである、提案について異議はない問題ないっていう言説はLaw somaからは出ておらず、むしろ現状維持でいいじゃない、っていう意図にしか取れませんからね。そこ明確にしていただけませんか?同じ事を両面から見ているとかは正直どうでもよくて、現実起こってることについて、それはたしかにそういうまずい事が起こっているし、理不尽であり修正したほうが良い、というプラクティカルな議論をしているのですよ。それを実質潰すような言説が不公平な視点から出されるようであれば、僕は反論して、詰める。うやむやに終わらすつもりはない。そういうことです。  --112.68.50.109 2011年2月3日 (木) 08:54 (UTC)[返信]
それはね、ぶっちゃけて言えば、私が「後ろめたいから」、暴走行為でないかと思われる極端な人に対しても強く言い得ていないということです。分かりますよね?私の個人的信条を「立派」とおっしゃった貴方なら。私が開き直っちゃいけないんです。もし私が彼らに強く注意するとしたら、それは私が自分が初版を執筆した全記事について検証可能性を満たしたときでしょう。貴方が理屈で真っ直ぐに正論を話していると思う人がいても、同時に出典の明記等についてきちんとしている人しか強く同意出来ない。もし方針の改正を言い出すにしても、きちんと出典を明記する人でなければ出し得ない。そういうことです。だから貴方のおっしゃることは重々承知で奥歯に物が挟まったような言説しか出来ないんです。ごめんなさい。--ろう(Law soma) D C 2011年2月4日 (金) 04:33 (UTC)[返信]

発言者でありながら余り書込み出来ず、申し訳ありません。多少ながらやっと時間が取れるようになりました。私もLaw somaさんや有足魚さんその他の方のおっしゃっていることはよく分かります。私も問題のある記述まで何が何でも残せと言っているわけではありません。不適切な記述であれば、たとえ出典付きの記述であっても残すべきではないし、事実過去に削除したこともあります。もっとも最近は残すことがより多くなりましたが。従って、Law somaさんもおっしゃって下さったように、mizusumashiさんとも基本方針の解釈で大きな違いがあるわけではなく、要するに方針の解釈の違いでしかありません。なので、本来ここで論争するようなことではなく、個別の項目で削除か残すかでお互いにぶつかったら、そのつど議論して決めてゆけばよいことです。それに、ここで議論している人たちであれば、方針の解釈でぶつかっても折り合ってゆけるでしょう。ならば何を問題視しているのかというと、そのようなやりとりが不可能な編集者に「信頼できる情報源を欠く編集は、除去されるのもやむを得ません」の文章を曲解される可能性を案じてのことです。そして、そのような人物が今後出てくるのではないか(事実、出たと判断しています)ということで、思い切って問題提起したのです。

そんな訳で、個人攻撃をしたいわけではなかったので一般論として問題提起したのですが、112.68.50.109さんの議論などを見ていると、どうもうまく伝わらなかったようです。それでも意義のある議論だとは思いますが、今回は、私の発言の背景になっている個別の問題についてもう少し踏み込んで発言したいと思います。

で、具体的な問題です。私が出典要請タグを付す場合は、今まではどちらかというと書かれてから何年も経っているもの(出典付きの記述が余り積極的に為されていなかった頃の記事を含む)が多いです。考えようによっては、このような記述は他の編集者が特に問題視していない場合もあるでしょうし、その意味で独自研究などの恐れは余りないものもあるのではないでしょうか。特にこのような記述に関して出典要請タグがされた場合(特に私の場合)は、「出典を知っている人への加筆要請」の意味合いが強い。今回編集合戦になった聖絶でも、あくまでもそういう意味合いで3箇所に「要出典」タグをつけたのです。ところが、それがひと月ほどでいきなり全て削除されたため(しかも私が出典要請タグを偶々付さなかった記述は生き残ったことからも分かる通り、相手の編集には整合性を余り感じられなかった)、こちらも意を決して相手とやり合った次第です(これ)。断定は控えますが、この編集を私は、出典要請タグが付されたのを口実にしての削除の可能性が高いのではないかと判断しています。(なお、今回の編集合戦の経緯はノートページに私がまとめておきましたが、とにかく私がその記述に対して何とか出典をつけると、今度は「キリスト教の項目にユダヤ教まで持込んで来た、POVだ」とか言って大騒ぎを始めました。また、特に今回の編集合戦においては、逆に相手が出典要請タグをやたらベタベタと貼り付ける行為に出ましたが、これも時期を見ての削除準備ではないかと考えています。) 

そんな訳で、このような逸脱編集を行なうのはこの人物だけではないと思いますが、今のままの本項目の解釈(削除してもよい)だと、上記のような逸脱行為を止める手立てがありません。相手からは、私は「Wikipediaの規則を否定しているPOVな人物」として他者に説明されている有様です。皆さんは、この手の編集者に今後「出典を示す責任は掲載を希望する側に」の文章を曲解させてよいと思いますか? また、「信頼できる情報源を欠く編集は、除去されるのもやむを得ません。」という文言は本来、執筆者に対して出典の裏付けのない記事を書かせないように(レトリックもかねて)強く注意を促す文章でもあるはずです。それを自分の気に入らない記述を削除させるお墨付きを与えてよいものなのなのか? そういった懸念を表明するのも今回の発言の趣旨でした。相手の編集態度に関しては色々と証拠を挙げることも出来ますが(ここはコメント依頼の場所でも投稿ブロック依頼の場所でもないので控えます)、とにかくこの手の逸脱編集者がこの項目を拡大解釈できないように書き直しなどができれば幸いだと思っての今回の発言です。私の懸念は取越し苦労と感じられるかも知れませんが、今回の編集合戦で大変な思いをしたのも事実です。そのような事例を踏まえての発言であることをご理解下さい。その上で皆さんの忌憚のないご意見が伺えれば幸いです。本来はコメント依頼でするべき話題だったのかも知れませんが、今回あえて言及いたしました。それと、長文はどうかご容赦下さい。--Bokemiann 2011年2月4日 (金) 07:06 (UTC)[返信]

私も出典のない記述をむやみに削除しているわけではなく、実際にはかなりの程度で{{要出典範囲}}を使用することが多いのはたしかですが、Law somaさんや有足魚さんの努力や誠意に水を指すようで心苦しいのものの、やはり私の意見とBokemiannさんの意見の間には大きな隔たりがある、と感じています。
まず、聖絶におけるご指摘の除去[2]について、「出典要請タグが付されたのを口実にしての削除の可能性が高いのではないかと判断しています」とおっしゃられていますが、私も、これは出典がついていないということだけが除去の動機ではなかろうと思います。「口実」だといっても、それほど間違ってはいないでしょう。
私としては、項目「聖絶」の編集の方向として、おそらくBokemiannさんの同じく、できれば「アナテマ」とも統合し、聖書学・高等批評を参照しつつ歴史的展開を軸に記述し、現代の福音派の見解はひとつの立場にすぎないものとして記述したほうが望ましい、と思います。しかし、問題とされている除去を行った執筆者はそれとは違った見解をお持ちで、問題とされている除去はその見解にそった内容を実現しようとするものですから、除去の時点でどれほどその動機を自覚的に意識されていたかはともかく、いまから振り返れば、出典がついていないということだけが除去の動機だったと判断するのは難しいでしょう。
もっとも、その除去した執筆者の見解もそれほど不合理なものとも思えません。むしろ、もし、アナテマ/ヘーレム/聖絶の記事が極めて充実し、将来分割が必要になるとなればその見解のような分割にも一理あり、そのときには「当初からそうすれば良かったではないか」という展開になることもありうることだろうと思います。
以上が、私が項目「聖絶」とBokemiannさんが問題とされている除去とについて理解している経緯です。
さて、その除去を行った執筆者の「出典がついていない」というだけではない、いわば本音の動機が十分に推測がつく展開になったわけですが、そのような展開となって、Bokemiannさんとその執筆者の間で、平和的で穏当な建設的な意見交換となりましたか? その「本音の動機」が分かったことによって、むしろ、Bokemiannさんとその執筆者の話し合いは、さらに相互の人格批判の様相を帯び始め、泥沼化しているように思えます。
これは、この特定の事例だけにあてはまるというわけではなく、相手の本音を知りたいがため、あるいは自分の本音を明らかにすることが誠実だと考えるがため、双方本音のぶつかり合いになり、最後には人格批判・感情的対立となって不幸な結末を迎える、という展開は、私はウィキペディア日本語版で何度も見てきました。考えてみれば、もともと「腹を割って本音で話し合う」とい希望は、うまくいけばよいが、うまくいかなければ悲惨な結果となる、という危険性を多いに含んだものなのでしょう。本音というのはしばしばその人の人格のとてもセンシティブなところに根ざしており、そこで話し合って合意できなければ、もはや、いわば「腹を切る」か「実力行使」しか残りません。
したがって、建前(いわば口実)で決着がつくのであればそれは往々にしてむしろ望ましいことであり、そこで自分の本音を明らかにしたい、相手の本音を知りたいという欲求は、抑制すべき、危険な衝動です。多くの方がこの危険な衝動に負けて、不幸な展開となり、ウィキペディア日本語版を去っていかれました。
今回の場合も、Bokemiannさんが問題とされている除去をした執筆者が、仮に「自分の所属する教派にとって不利益な記述であるから」という理由で除去しており(実際には少なくともそこまで露骨なものではありませんでしたが)、そのことを除去の時点から明らかにしていれば、何かもっとよい展開になったでしょうか。なったとは私には思えません。また、仮にそのような表明が行われていた場合、除去を容認するという結果になっただろうと思います。
WP:Vの解釈に話を戻しますが、たいていの場合は、自分が好ましいと思う記述は除去せず、正確性が疑わしいとか、あるいは何か不名誉だとか不利益だとか、という動機があって除去するものでしょう。そういった意味では、Bokemiannさんがおっしゃるように「信頼できる情報源を欠く編集は、除去されるのもやむを得ません」という記述はいわば「口実」として利用されているのだと思います。ですが、それはそれで良く、ことさらに本音の動機を求めることこそ危険である、と私は考えています。
誠意や好意は大事です。それこそ、ウィキペディア日本版が建ちもすれば倒れもする礎でしょう。しかし、本音とは燃える石炭であり、安易に扱うべきものではありません。--mizusumashi(みずすまし) 2011年2月4日 (金) 15:53 (UTC)[返信]
要約すると、それ、「方針理念がまったく想定していない本音=正当性もあったもんじゃない合意のない独自POVをもって、方針の一部記述を拡大解釈し濫用すること」を正当化する、ということですね? そういう濫用は曖昧にしておいたほうがお互い幸福なんだ、みたいな話になっているのは、なかなかわけがわかりませんが、このケースでは、記述除去しようとした利用者の本音を隠蔽し方針濫用した欺瞞を許せ、それでいいじゃないか、お互い幸せだということになっている。仮に「自分の所属する教派にとって不利益な記述であるから」という理由で除去するために、WP:Vが濫用されるということなどは、断じて許容すべきでないのは当たり前なのに、それがなんでその辺曖昧にして除去したい人らは、それに限定せずどんな動機=本音でも許されるんだよ、結果そのほうが衝突がなくて幸せになるよ、みたいなこと。これ言ってることめっちゃくちゃ。で、なんでこんなめっちゃくちゃな事を正当化しちゃうのかというと、やっぱりそれ、mizusumashiさんが、そっちの濫用許容したほうが都合がいい、ってだけなんじゃないですか?なんで情報保存するほうだけがその欺瞞を許して結果割りを食う結論になってるんです?--112.68.50.109 2011年2月4日 (金) 19:44 (UTC)[返信]
念のため。この場合、望ましい方法とは、本音の部分は本音の部分として別に切りだして議論することですね。「自分の教団の不利益な記述を除去したい」ってのは「検証可能性」じゃなくて「中立的観点」の話でしょ?さらにそれ除去を求めるほうの「独自研究」である危険性の問題でもある。こういうしっかり別問題としてそれに向きあって議論すべき情報除去「希望者」の「本音」がなんで「検証可能性」を拡大解釈して正当化しておいてお互い幸せだ、みたいなことになってるのか?  --112.68.50.109 2011年2月4日 (金) 20:11 (UTC) [返信]
Wikipedia‐ノート:ウィキプロジェクト キリスト教/中立的観点でその辺の「本音」について切り出されて議論はあるようです。本件についても、そちらを相互参照しながら議論すべき案件。「中立的な観点」を損なう利用者による「検証可能性」の拡大解釈は厳しく咎められるべきことであり、けして擁護されるような性格のものではありません。--112.68.50.109 2011年2月4日 (金) 20:22 (UTC)[返信]
Law somaさんの上、直近のコメントへのお返事もこちらでまとめて。「個人的なうしろめたさ」つまり過去のご自分が出典について不十分で追加してきた、他の人の手を煩わせるような編集をしてきたという後悔の念がおありになるのは心情として立派ですが、それはこのプロジェクトで正当なプロセスの一環であり正当化されている、というのはご説明申し上げたとおりです。今回問題となっているのは、その正当性をやみくもに奪う、牽制する間違いをただそうという提案です。なんか過去の不十分な自分に罰を与えるために現在の不十分な利用者にも罰をあたえる仕組みにしておきたい、みたいに読み取れるんですけども、それおかしくないですか?不十分な参加者はこのプロジェクトで認められるし、不十分な記述、出典のない記述もしっかり猶予されるというのも正当化されてるんです。ここを許容しない、抑えつけるっていう独自方針を正当化したという企ての動機が、過去の自分の不十分さへのうしろめたさ、みたいなものであれば、そんなものは妥当な主張として認められるわけがないとおもいます。--112.68.50.109 2011年2月4日 (金) 19:57 (UTC)[返信]
mizusumashiさん、ありがとうございます。経緯についてはmizusumashiさんの理解で的確です。同じ見解を持って下さっているようで心強く感じました。ただ、「口実として利用されるのであれば、それはそれで良い」という要約はどうしてもいただけません。方針の解釈から考え方までお互いに相当に違うのですね。なお、あなたがしきりにおっしゃる「本音」ということでは、特に相手の本音を知りたいと思っているわけでは必ずしもありません。私は福音派クリスチャンの考え方などもある程度知っていますし、やりとりの中で相手の本音の部分が大体分かってしまったと言えばよいでしょう。それに、こういった事柄はノートページでどうとかなることではありません。また、もしも最初の削除の時に相手の本音が分かっていたら、当然合意など出来ようがありません。ただ、今回は幸いキリスト教のプロジェクトページがあり、そこで議論もできたので(議論になりませんでしたが) 、何とかこのページに関しては折り合いました。詳しいことは省きますが、相手の主張(分割)を全面的に受け入れて、私の「聖絶」の「ヘーレム」への改名案はそのままに、新たに「聖絶」のページを起こして、そちら好みの記事は今度はそこで書いてくれという解決案が採用される見込みです。ただ、細かい技術的な案件も含め、保護解除開けに相手がスムーズにその案に従ってくれるかどうかはまだ未知数ですが。
さて、mizusumashiさんのいうことは私には理解できません。(今回の相手を悪質と断定してよいかどうかはまだ決めてはありませんが)規約の曲解その他を許して、問題のある編集者を放置してもよいかのようなあなたのご意見は私には納得できるものではありません。こういった何らかの逸脱した「本音」を持ってWikipediaの編集に関わっている人に対しては、(それが明らかになった段階で)それなりの厳しい対処が必要になると思います。だから、そのような相手の本音を探るということは決裂も覚悟しての行為であるはずですし、また、Wikipediaにとって重大な被害も及ぼしかねないと判断したからこそ本音を探るのではないでしょうか? それは個々の記事の編集合戦とは別のもっと大きな問題です。今回は、そういう相手に好き勝手をさせないように考えての、そして一般論的な議論も意図しての今回の提案でしたが、規約の文言が曲解できないように画き替えられても根本的な解決にはならないかも知れません。今はそんな風に考えています。--Bokemiann 2011年2月5日 (土) 11:13 (UTC)[返信]
Bokemiann 2011年2月4日 (金) 07:06 (UTC)以降の話について。以下、発言を借りるところもありますが、具体的な項目、編集者を評価するものではないです。
「出典要請タグが付されたのを口実にしての削除の可能性が高い」というのは、「出典云々以外に、除去したいという意図がある」ということを含意しているのだと推察します。
「今のままの本項目の解釈(削除してもよい)」であっても、「上記のような逸脱行為を止める手立て」としては、出典を示すことで足ります。それは、情報源を示すことで、即座に通用しなくなる口実に過ぎないのです。
それによって、いかに逸脱した解釈をしようとも、情報源がないからという理由では削除できず、情報源の信頼性や適切さの議論に進むことになります。「キリスト教の項目にユダヤ教まで持込んで来た、POVだ」というのは、そういう水準の話であって、本項目の解釈とは別の話です。
そして、相手の本音が逸脱しているものであれば、議論が精緻になっていけばいくほど、相手は確立した、権威ある情報源を示すことはできなくなっていきます。ウィキペディアの検証可能性と中立的な観点という方針は、「世の中みんなが馬鹿でこれが真理」を(たとえそれが正しくとも)認めず、ただし俗説に対して専門的な知見を示すことは可能にしているものです。問題のある編集者がいたとしても、その編集は、ウィキペディアとして受け入れられる範囲に押し込められることになります。受け入れられない範囲の編集を繰り返せば、やがてブロックされるでしょう。
「本音」というのは、本人が認めない限り、察することができたとしても、どうしても不可知なところが残ります。ある程度までは、共有できるところもあるとは思いますけれど。特に論争が生じやすい分野では、「本音」そのものの評価も、「察した人」とコミュニティの間で一致するとは限りません。右でも左でも、自分が中道だと思って相手を批判することも多いわけですし、過敏な反応を示す人もいらっしゃいます。その論争について、背景となる知識を持つか持たないかで判断は変わるし、持ったら持ったで、どちらかに取り込まれる。だから、「本音」ではなく、振る舞いとして示されたもので、対処していく。
振る舞いとして問題があれば、あるいは、その「本音」の問題点を他の編集者も共有できると考えられるならば、とるべき措置は方針の改訂ではなく、ブロック依頼です。--以上の署名の無いコメントは、 Ks aka 98会話投稿記録)さんによるものです。
Ks aka 98さん、的確なコメントをありがとうございます。なるべく一般論として論じたかったのですが、今回ちょっと個別の問題にシフトしすぎたかも知れません。
おっしゃる通りで、個別の問題に関しては、最終的にはブロック依頼までを射程に入れて考えています。「本音」という表現はmizusumashiさんの表現を借用したもので、実は私も実際は相手の振るまい(編集態度)を問題に感じています。ただ、今回はあくまで一般論として、具体的な人物の振る舞いではなく、規則を口実に自分の気に入らない記述を削除するような行為に対して、現在の「出典を示す責任は掲載を希望する側に」の文言がお墨付きを与えているのだとしたら、今後(も現われるかも知れない)そのような編集者による逸脱行為を事前に防ぐ意味合いでも、現在の文章を多少でも変更した方がよいのではないか、という提案のつもりでした。またその上で、コメント依頼など個別の対応に出るに当たって、(その前に)出典のない記述をどう扱うかについて多くの人のご意見も聞いておきたかった、というのが私の本音です。なお、私の言いたいことはこれで言い尽くせましたので、後は、コメントなどで議論に参加することはあっても、この件についてのこれ以上の詳しい言及はしないつもりです。後はそれこそ、相手の態度を見ての個別の対応ですから。--Bokemiann 2011年2月6日 (日) 19:35 (UTC)[返信]
(言い忘れたことがあったので)
> 「今のままの本項目の解釈(削除してもよい)」であっても、「上記のような逸脱行為を止める手立て」としては、出典を示すことで足ります。それは、情報源を示すことで、即座に通用しなくなる口実に過ぎないのです。
とのことですが、今回の事例では、出典をよく知らない項目だからこそ出典要請タグを付したわけで、その場合はKs aka 98さんのコメントは当てはまらなくなります。その辺はどうなのでしょう? 規則を口実にイタズラに削除させてよいのでしょうか? そういった懸念があっての問題提起でした。私も適切な出典を知っている項目では、勝手に削除された記述に関しては出典を付して、場合によってはかなり加筆もして対応しています。(なお、別の関連記事ですが、出典を付しても、気に入らない編集に対してはPOVな編集をする人物なので、やはりかなり問題ありと見ています。)

--Bokemiann 2011年2月6日 (日) 19:51 (UTC) [返信]