聖絶

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聖絶(せいぜつ)とは、旧約聖書において神の道に叛くとされた国家・都市の住民を全て虐殺し、財産も全て滅ぼしつくすこと。

神のために聖別すること、或はその捧げられたものを意味するヘブライ語のヘーレム(ギリシャ語形はアナテマ)の翻訳語で、福音派クリスチャンたちの手による1970年刊行の『新改訳聖書』において訳語として初めて採用された。また、最近では岩波書店刊行の旧約聖書でも使用され、一般に知られるようになった。なお、クリスチャンでこの訳語を用いるのは「聖書根本主義」の立場に立つ福音派クリスチャンのみである。

目次

[編集] 概要

ヘーレムの語根は「別にしておく」とか「俗用に供することを禁じる」ことを意味しており、この語は旧約聖書で神への奉納・奉献・聖別を表すためにも用いられているが、イスラエルに敵対する異民族に対して用いられる時は、「神への奉納物として、異教の神を拝むものとそれに関連する事物を悉く滅ぼし尽くす」ことを意味する。

この意味の聖絶は、通常は、イスラエルに敵対する異民族(通例は町単位)に対して、「彼らを聖絶する(一般の翻訳聖書では「滅ぼし尽くして神へ捧げる」)ので自分たちに力を与えて欲しい」というように神へ誓願する形で行なわれる(民数記21:1~3)。聖絶対象とされた敵対異民族は全員が剣で殺され、また家畜も含め生けるものは全て殺戮された。通常の戦闘では許される女子どもの捕虜も、また家畜などの戦利品も、聖絶においては自分たちの所有物とすることは許されず、全てが神への捧げ物とされる。それ以外の剣でもって滅ぼせないものは火をもって焼き尽くされ、また、燃やすことの出来ない金銀財宝などは神殿の奉納倉へ納めて、「呪われた汚らわしきもの」として民衆の手からは隔離されなければならなかった。そして、聖絶のものを私物した者は、神の怒りに触れるものとして、罰として処刑された。

なお、古代の戦闘は全てその民族の守護神の闘いでもあったため、闘いに敗れた民族とその所有物はその所有関係が切断されて「神無きもの」となって穢れた存在となるが、聖絶とは、それを勝利をもたらした自国の守護神に儀礼的に捧げ尽くすことで「神無きもの」が購われ、新たな所有に移すために行なわれる宗教儀礼で、必ずしも敵対異民族を物理的に絶滅させたわけではないといった見解が岩波書店訳の旧約聖書で注解されている。


聖絶は必ずしも異民族にだけ行われたのではなく、ヤーウェ以外の神を礼拝するイスラエル民族にも向けられた(出22:20, 申7:26.)。

[編集] 旧約聖書における聖絶の例

[編集] 新約聖書における聖絶の例

ヘーレムの語は紀元前後頃にはその意味が変質し、強い呪いを意味する語に変わった。実際、新約聖書では不信者に対する呪いの言葉としてこの語が用いられている。従って、新約聖書でそのギリシャ語形のアナテマが使われる場合は翻訳聖書で「聖絶」の語が用いられることはない。

なお、「強い呪い」という意味から、アナテマは後のカトリック教会では「破門」を意味する語として用いられるようになった。

[編集] 旧約聖書の聖絶の記述に関する史学的評価

このヘーレムという慣習はイスラエルのみならずモアブのような近隣諸国にも共通して見られる宗教儀礼で、それは敗北した敵を単に虐殺することだけでなく、聖なる闘いに関する宗教的規定のひとつであったが、実際にこの規定が適用されたことは現実問題としてかなり稀なことであったと考えられている。従って現在の歴史学では、聖書に書かれたジェノサイドの記述は歴史を正しく伝えたものではなく、後代のバビロン捕囚前後の時代にイスラエル中心主義の影響で書かれたものとされている。イエスの家系にもモアブ人女性ルツが登場することからも分かるとおり、実際の歴史ではユダヤ人はアマレク人カナン人ミデヤン人ペリシテ人モアブ人アモン人エドム人などの近隣諸民族と共存、通婚しており、ユダヤ人の勢力がカナン・シリアで支配的なものとなってイスラエル王国ユダ王国が建国された際も上記のようなユダヤ人以外の諸民族の共存は許されていた。これらの諸民族はイスラエル王国、ユダ王国の統治の間に徐々にユダヤ人と混血し、吸収されていったものと思われる。

敵対異民族を聖絶の捧げ物とした場合、相手を滅ぼしてもイスラエルの民には物質的には何の利益にもならないため、当然ながら違反者が続出した。また、一民族を全て根絶やしにすることは現実問題としても無理であった。「このように聖絶が不徹底であったため、バアル信仰がイスラエルの中に蔓延り、神の怒りを招いた結果、自分たちは異民族に支配されなければならなかったのだ」という反省及び歴史解釈がイスラエルの中に起こり、バビロン捕囚以後にそのような観点の下に聖書が編纂されたものと考えられている。

[編集] 聖絶に対する現代のユダヤ教、キリスト教の評価

現代のキリスト教、ユダヤ教では聖絶を表向き肯定する意見は比較的少数派である。しかし、神学上の解釈に於いては猶「この聖絶は神の御心に沿ったものであり、現代では許されないことだが当時は正しかった」とする意見が根強い。しかしこの聖絶という行いは現代風に言えば間違いなく「民族浄化」に他ならず、ユダヤ人のホロコーストを想起させざるを得ない行いである。聖書の無謬性を重んじるか、普遍的人道を重んじるかでクリスチャンやユダヤ教徒の解釈も割れている。

なお、上にも述べた通り『新改訳聖書』は福音派クリスチャンの手による翻訳聖書で、当然ながら「聖書根本主義」の立場で翻訳されている。従って、この聖書を用いる教会及び教会員は、聖書の無謬性の観点から、自覚的であると否とによらず過去における「民族浄化」行為を正当化する立場に立っていると言える。
もっとも現在では、聖絶の語は、「神が直接人類に語らなくなった現代ではジェノサイドとしての聖絶がクリスチャンによって実際行為として行なわれることはない」とか、或は「何ものも私物化せず、全てを神のものとして捧げる行為を暗示している」など様々に解釈されているが、「民族浄化」を容認するこのような訳語の試みに対して批判的に見る向きも多い。
改革派・長老派教会においては、聖絶の問題は契約神学の観点から捉えられている。聖書の無謬性・規範性に基き、旧約聖書における聖絶の記事は歴史的事実であり、神の正当な行為であったと受け止められている一方で、イエス・キリストが到来して以来の時代においては、聖絶の名において民族浄化のような殺戮行為を行うことは、聖書自身が禁止しているとすると見る。これは契約神学における、イエス・キリスト以前の時代(旧約)と、それ以降の時代(新約)とにおける質的違いを認めることから来る。すなわち、旧約の時代においてはイスラエル民族が神の義と恵みを表す地上的器として用いられたが、それに対して新約の時代においてはキリストが十字架に着いたことによって神の義と恵みが充満な形で示されており、聖絶において表されていた事柄(神の罪人に対する終末論的裁き)をこれ以上地上的に表現する意味がなく、またそれも禁止されている、と理解される。

[編集] 関連項目