Wikipedia:井戸端/subj/情報源が「信頼できない」と主張するための条件

情報源が「信頼できない」と主張するための条件[編集]

Wikipedia:信頼できる情報源に関係する話題について。ある投稿者が、ある「信頼できそうな情報源」をもとにWikipediaに「適切に引用」している場合において、その引用元が信頼できそうにないと感じた別の編集者は「その情報源は信頼できそうにないので却下すべきである」と主張(論証的・合理的に説明)するだけで、その引用元を採用することができなくなるのか、という論題についてお尋ねします。Wikipedia:検証可能性においては、「出典を示す義務を負うのは、書き加えようとする側であり、除去を求める側ではありません。」とあります。では【出典が《信頼できる情報源である》ということを立証するのは、書き加えようとする側であり、除去を求める側ではない】と言えるのでしょうか。
具体的な事例で申し述べます。科学における不正行為という記事において上記の編集方針について解釈が分かれております。加筆者(大和屋敷)は「参議院が公表している文書」をもとに加筆をおこなったところ、別の編集者の方が【その引用元の筆者はあきらかに法律に詳しくなく、文書偽造罪や著作権等の「法律の世界ではかなり当たり前のこと」について理解していない(可能性が非常に高い)】ため信頼できかねる(主旨)との主張と解説により、情報源の信頼性を認めない論述を行っておられます。
そして(問題であるのは)この主張には相応の説得性があり、また外部の法律書などで一定の裏づけが取れるのであるが、一方で「科学における不正行為」といった特別な状況を考察するにおいて、そのような「法律の世界ではかなり当たり前のこと」を独自研究的に適用してしまって問題がないのか、大和屋敷は確信をもてない状況にあります。なんと言っても相手は参議院です。一方でその信頼性を否定されておられるのがWikipedia編集者の方です。
さて、問題は大和屋敷は「そういった議論は参議院事務局の当該筆者と直接おこなうべきであって、その結論を公表したうえでWikipediaに紹介するのがスジだろう」主旨の主張をしており、これに対論として【出典が《信頼できる情報源である》ということを立証するのは、書き加えようとする側であり、除去を求める側ではない】との反論(主旨)を頂いております。 【出典が《信頼できる情報源である》ということを立証するのは、書き加えようとする側であり、除去を求める側ではない】のでしょうか。みなさまのご意見やご検討を宜しくお願い申し上げます。--大和屋敷 2011年6月15日 (水) 17:08 (UTC)[返信]

情報源の信頼性、あるいは情報源にある記述の信頼性は、その著者やその発行元で、ある程度判断できます。その情報源を書いているのが専門家ではなく、そこにある法律に関する記述が、他の法律の信頼できる専門書によって否定される場合であれば、基本的にはその法律について信頼できる側を選択すべきです。
ただし、その情報源が強い影響力を持っていた場合など、情報源にどう書かれているのかを重視しなければならないこともあるでしょう。それは、まとめる執筆者の誠意と良心と、その項目が関連する分野における知識などから、適切な表現が求められるということになるでしょう。
参議院というのは、せいぜい、そのように言ったということ、そのような文書を作成したということを、かなりの程度信頼できるというふうに保証しているにすぎません。また、ここで比較すべきは、「参議院が公表している法律の専門家ではない人がまとめた文書」と、「議論の中で挙げられている挙げられている法律の専門書」と、法律に関する話題の中で、どちらが信頼できる情報源か、です。「議論の中で挙げられている挙げられている法律の専門書」が、「参議院が公表している法律の専門家ではない人がまとめた文書」のなかの「法律に関する話題」を否定しているのです。--Ks aka 98 2011年6月15日 (水) 17:54 (UTC)[返信]

うーん。この参議院の公表している文書そのものの信頼性の実質については、なるべく井戸端の話題にしない方向性でお願いしたいです。個人的には対象先ノートで議論になっている(競合している)編集者の方の主張もそれなりに合理的のようには見えるのですが、一方でこの参議院の公表している文書(平田2006[1])を直接引用している、別の信頼できそうな情報源もすでに存在しており([2]PDF-P.36等)、一方でこの筆者(平田)は科学技術政策研究所(NISTEP)の企画課課長補佐([3]PDF-P.147)であるから学術的に信用できるか!との主張も匿名のWikipedia編集者から挙がっておかしくないような点もありまして、取り扱いが難しいことがあります。【出典が《信頼できる情報源である》ということを立証するのは、書き加えようとする側であり、除去を求める側ではない】のかどうか、に議論の焦点が集まれば有難いです。--大和屋敷 2011年6月15日 (水) 18:29 (UTC)[返信]

私見では、そもそもの「信頼できる情報源」の定義が曖昧だと考えています。ですので、大上段に構えて一般論として論ずることが出来ない類の問題と思われます。
ざっと見たところ、大和屋敷氏の主張は「出版元が信頼できる(すべき)組織であるので信頼できる情報源である」であり、対立論者の主張は「情報源の言葉を何等の検証をせずに載せているだけなので信頼できる情報源ではない」です。
大和屋敷氏の論法は、出版元が信頼できる情報源と推定される組織であるならば、該組織が引用した内容は信頼できる情報源として利用可能である、と主張しています。ですがこの場合、信頼できる情報とは即ち「該引用内容が確かに主張された」事実までであって、該引用内容が正しいか否かは完全に別の問題です。例えば、特許庁の特許広報は信頼できる情報源に相違無いと思いますが、その内容は特許出願の引用であり、特許出願には何を書いても構わない(←面白特許でググることをお勧めします)ので、到底信頼できる情報ではありません。この例では、引用内容の情報源とは出願者であり特許庁ではありません。これが信頼できる情報源として利用可能ならば、私は直ちに主張したい任意の内容を書き込んだ無意味な特許出願を行い、特許広報に載った直後に信頼できる情報源に記載の内容としてWikipediaにそれを書き込むことが出来ます。少なくとも、信頼できる情報源として用いてはならないと明記されている自費出版よりも安くできますからね。
以上より、件の議論に於いては大和屋敷氏の論法に問題がある(大和屋敷氏が反論すべきは引用された文言の筆者が信頼出来る情報源と看做し得るか否かである)のであって、本件問題提起である【出典が《信頼できる情報源である》ということを立証するのは、書き加えようとする側であり、除去を求める側であるか否か】の問題とは無関係です。
その無関係な問題を定義が曖昧なまま確定させ不文律化させる試みはWikipediaの将来の為にならないと考えます。以って、ここでその結論を出すべく議論を行うことは不適切であると考えます。
私見としては【出典が《信頼できる情報源である》ということを立証する必要は全く無く、《信頼できる情報源である》という合意を形成すべきである】です。特に本件問題提起を行った大和屋敷氏自身が不適切な(誤った)論法により『立証』しようとしていることから想像可能と思われますが、『立証』することを前提とした議論の場合には少なくとも一方に(場合によっては双方に)詭弁誤謬を行わせる結果になりがちなので、立証を求めること自体が不適切です。さらに言うならば、「どちらが『立証』を行うべきか」と問うことで『立証するのではなく対話により合意を形成するべき』という結論を出せないようにすることもまた議論誘導であり、厳に慎むべき行為だと考えます。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年6月16日 (木) 02:32 (UTC)[返信]
細かいことですが、「特許公報」は特許査定を得た発明のみが掲載される広報なので、その文脈では「公開特許公報」(公開公報)が適切だと思います。過去にそれを勘違いした記事もありました(Wikipedia:削除依頼/生体情報送受信によるテレパシーシステムに対する防御装置)。他の部分についてはおおよそ同意です。
大和屋敷氏が解釈する「情報源の信頼性」については、Wikipedia‐ノート:信頼できる情報源#「偽の権威に注意」の項目についての議論が参考になると思います。- NEON 2011年6月16日 (木) 03:31 (UTC)[返信]
ぎゃー! 赤っ恥を晒してしまいました。然り、公開特許広報のつもりで特許広報と書いていました。--世界最狂の魔法使いCray-G 2011年6月16日 (木) 05:07 (UTC)[返信]

Wikipedia:信頼できる情報源は現在草案段階でありまして、「信頼できる情報源」の定義が曖昧だとおっしゃるのはその通りなのですが、一方ですでにWikipedia:検証可能性によれば「良い記事を執筆するためには、広く信頼されている発行元からすでに公開されている(情報)についてのみ言及すべきです」と冒頭記述されており、こちらは公式方針です。【広く信頼されている発行元】とはっきり記述しています。【広く信頼されている情報】ではありません。ウィキペディアに執筆してよいかどうかの基準は「真実であるかどうか」ではなく「検証可能かどうか」であり、とくに珍奇な主張には強固な情報源が必要であり、一方で情報が「真実」であるということだけでは(検証可能性を)満たしていると(は言えない)この文脈における「検証可能性」とは、編集者が、例えばニューヨーク・タイムズの記事の中身が真実かどうか検証する責任があるという意味では(なく、)実際のところ、編集者はその種の調査をしないよう強く求められます、とあります。
Wikipedia:検証可能性はいわゆる内容に関する三大方針であって、この三方針は議論の余地がないものであり、他のガイドラインや利用者同士での合意によって覆されるものではありません
Cray-Gさんには大変申し訳ないのですが、述べられておられる主張がこのガイドラインを完全に理解されていないかお読みになったことがないとしか考えられません。繰り返しますがこの文脈における「検証可能性」とは、編集者が、例えばニューヨーク・タイムズの記事の中身が真実かどうか検証する責任があるという意味では(なく、)実際のところ、編集者はその種の調査をしないよう強く求められます、とあります。--大和屋敷 2011年6月16日 (木) 02:54 (UTC) 今般の井戸端での問題提起はありていに申し述べますと「編集競合時の作法」についての話題提案と見ていただけるとありがたいです。Wikipedia:検証可能性の「出典を示す責任は掲載を希望する側に」という要求は非常に強烈でして、編集競合したさいには掲載を希望する側が出典を示せ、示せなければ削除されても諦めろと主張するものです。一方で信頼できる情報源から適切に引用されているにもかかわらず、その情報の内容がかなりアヤシイと思われる場合、情報源が信頼できるのならば、むしろその情報が誤っているかどうかという「調査をしないよう強く求められます」、とさえ述べています。大和屋敷は広く信頼されている発行元であるところの参議院事務局からの文章を利用しており、仮にその内容が現実に問題であり間違っていたとしてもWikipediaに適切に引用することを拒否される理由は無いのではないかと考えました。それに対して【出典が《信頼できる情報源である》ということを立証するのは、書き加えようとする側であり、除去を求める側ではない】といった「編集競合時の作法」を突きつけられております。論証的にはこれはWikipedia:検証可能性の要求する論点を、字句をすり替えただけの根拠のない要求にすぎないため「そのような編集ルールはWikipediaに存在しない」と反論してしまえばそれだけの事なのですが、そもそも【信頼できる発行元】の情報を却下するための編集競合時の作法がどうもWikipediaルール上ハッキリしませんでしたので井戸端で提起させて頂いた次第です。--大和屋敷 2011年6月16日 (木) 03:36 (UTC)[返信]

「真実であるかどうか」ではなく「検証可能かどうか」であり
引用があったことは検証可能です。しかし引用内容を検証することは出来ません。ですので、引用内容を検証していると見込まれるのであれば、それを信頼できる情報源とすることが出来ます。それが見込まれないのであれば、それは信頼できる情報源足り得ません。発行組織の問題ではありません。
で、その「引用内容を検証している」こと自体は検証不可能です。また定義も不能です。故に「定義が曖昧」なのです。
大和屋敷氏が「信頼できる情報源」として挙げた参議院なんちゃら(←詳しく見ていませんが)は、明らかに記載内容を内容に基づいて選別していないはずです。ですので、引用内容が発言されたこと自体を挙げる(例えば「誤解が実在する例」として)であれば信頼できる情報源ではありましょうが、引用されていることを以ってその引用内容が「検証不要」であるという意味での信頼できる情報源ではない、と反駁されているわけです。
【信頼できる発行元】の情報を却下するための編集競合時の作法がどうもWikipediaルール上ハッキリしませんでした
この上無くはっきりしています。合意を形成することです。ルールに則ってゲームを行ない論敵の意見を却下することではありません。
件の問題に関して、「参議院なんちゃら」を信頼できる情報源として採用することの是非に関して意見を募るのであれば有意義でしょうが、合意を形成する努力を放棄して、ゲームを行ない論敵を「やっつけ」る為のルールを求めることには賛成出来ません。
却下する為の作法(=ルール)など不要です。と言えば言い過ぎですが、互いに善意と礼節を以って合意を形成することが重要であり、その為に理念を(言葉面ではなく)理解することが大切です。
信頼できる情報源云々の方針が持つ理念を理解していただきたいと切に願います。それは「ウィキペディアンの代わりに検証してくれていると信頼できるか」情報源なのです。議員が公表したら内容を精査せずに何でも載せる機関に載っている内容が検証可能性を満たす「信頼できる情報源」であるか否かは大いに検討に値する問題であり、合意を形成するべき問題だと考えます。却下するルールを求めるのではなく。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年6月16日 (木) 05:07 (UTC)[返信]

ちょっとおっしゃる意味というか、術語がアイマイなのでよく分からないですね。Cray-Gさんは「査読」を受けていないような文献は「たとえ信頼できる発行元から公開されていても」Wikipediaでいうところの信頼できる情報源に該当しない、こう仰るわけですか?--大和屋敷 2011年6月16日 (木) 05:15 (UTC)[返信]

どれがどれの返信かわかり難い段付けになっているようなので順序を前に持ってきますが……
術語がアイマイなので
失礼しました。そうです査読のことを言いたかったのです。
~~Wikipediaでいうところの信頼できる情報源に該当しない
飽くまで可能性がある、と主張しているのですが、それで良ければ仰る通りです。正確に言えば「査読を受けていないと考えられる文献はたとえ信頼できる発行元から公開されていてもWikipediaでいうところの信頼できる情報源であるとは断定出来ない」です。その例に関しては、既に公開特許広報の例で出しました。
理念としては、査読を受けているか否かは、独自研究の禁止と関わりのある問題です。様々な立場主義主張の人間が集まって百貨辞典を編纂する上で、有意義なものを混乱することなく作り上げる為に設けている基準です。墨守する為のものでも曲解する為のものでも議論する為のものでもありません。
信頼できる情報源で言う信頼とは、組織に対して与えられるものではなく、査読に対して与えるものです。そしてそれは、合意によって決定されるのです。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年6月16日 (木) 07:04 (UTC)[返信]
コメント【信頼できる発行元】の情報を却下するための編集競合時の作法は、その記述に対して、より信頼できる情報源を参照し、その内容と、最初に示されていた「【信頼できる発行元】の情報」の情報を比較し、どちらがより信頼できるかを考え、合意に達することでしょう。ニューヨーク・タイムズの記事の内容を検証するような「調査」は避けなければなりませんが、その調査とは、独自の取材活動を指すのであって、他の信頼できる新聞や雑誌、ジャーナリストの見解や当事者の発表などを調べてはいけないということではありません。--Ks aka 98 2011年6月16日 (木) 05:19 (UTC)[返信]

その場合、Wikipedia編集者の見識を元に結論を得てしまうことは独自研究にあたりませんか?むろん、Wikipediaに掲載を希望する側が勝手に納得して勝手に掲載をとりさげることは可能ですが、一般論として参議院調査室が公開した文書に明確に記述してあることとWikipedia編集者による反論とでは信頼性(のステイタス)に差がありすぎます。ある掲載希望者が説得を受け入れ掲載を断念したとしても、別の新規の掲載希望者がおなじ情報源を元に掲載を希望し加筆したばあい、それをまた説得することで加筆を断念させるのなど、あからさまに百科事典的な態度として異質です。--大和屋敷 2011年6月16日 (木) 05:25 (UTC)[返信]

2つの【信頼できる発行元】で異なる内容が記述されている場合、ウィキペディアの編集者がすべきことは、「どちらがより信頼できるかを考え、合意に達する」ことではなく、「両論併記する」こと。もちろん情報元や出典数などによって記述の仕方は異なるであろうが、「情報の却下」は通常ありえぬ--朋ちゃん様 2011年6月16日 (木) 06:49 (UTC)[返信]
その場合、Wikipedia編集者の見識を元に結論を得てしまうことは独自研究に
合意を形成してください。ルール(独自研究)を盾に対話拒否をするのではなく。
信頼性(のステイタス)に差がありすぎます
この点に関しては大いに同意します。ですが、だから思考停止して内容のことは棚上げしましょう、という意見には賛同出来ません。
あからさまに百科事典的な態度として異質です
仕方がありません。Wikipediaは、万人が編纂可能だなどという頭が御菓子いとしか思えない異質な百科事典なのですから。この気狂いじみた無謀な理想を実現する為に、我々ウィキペディアンは努力を重ねているのではないのですか?
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年6月16日 (木) 07:04 (UTC)[返信]
特に怪しいわけでもない団体や機関が発表している情報であって、専門家が関知していることであるならば、そのことへの批判をウィキペディアのような匿名のサイトでやってほしくない、というのが率直な感想です。ウィキペディアで専門的な議論をされても、利用者の多くは判断できるだけの知識を持ち合わせてないのですから、合意を形成するのは困難でしょう。Wikipedia:独自研究は載せないには「「信頼できる」という語に明確な定義はありませんが、大部分の人は直感的に判断できます。」という一文がありますが、つまりこれは、専門的な知識のない読者が判断できる程度のものしか求められていないということだと思います。一般に不信感を抱かれない情報源によるものであって、それが事実と違うとするならば、公の場で批判されてしかるべきです。そうされていないにも関わらず、ウィキペディアの議論だけで信頼できるかできないかということを決めることは、独自研究的なものになる危険をはらんでいると思います。少なくとも、情報源に一定の権威があるのであれば、たとえ批判を受けている説であっても中立的な観点に留意して記述されるべきです。その説が多方面から否定され、少数意見としても記述する価値がない場合であればその限りではないでしょうが…--有足魚 2011年6月16日 (木) 09:40 (UTC)[返信]
情報源が「信頼できない」と主張するための条件
1.その情報源が匿名である。
2.自由に改竄が可能で、情報が固定されていない。
3.虚偽の情報の掲載、引用の捏造等を行っている。

こんなものかと。ご存知のとおり、「信頼のできる」と「信頼のできない」の間にはかなりの段階があって、その間には「信頼性の高い情報源」と「信頼性の低い情報源」があります。「信頼できない情報源」と「信頼性の低い情報源」を同一視してしまうと、議論がおかしくなります。--Afaz 2011年6月16日 (木) 10:43 (UTC)[返信]

科学における不正行為の論争で一方の当事者となっている私からも、少しコメントさせていただきます。いろいろ言いたいことはあるのですが、あまり議論を拡散しても話がまとまらなくなるので、できるだけ核心部分の問題だけにします。

  • 大和屋敷さんは「参議院」というだけで「信頼できそうな情報源」だと考えているようですが、ノート:科学における不正行為での議論では、私を含むむしろ多数派の編集者(というか、大和屋敷さん以外の人はほとんど全員)が「あまり信頼できそうにない情報源」(あるいは「使いにくい情報源」)だという判断をしていると思います。。
  • 「信頼できそうにない」(あるいは「使いにくい情報源」)という判断に至った根拠は、次のようなもので、別に「独自研究」(Wikipedia用語としてのそれではなく、一般的な意味での)というほどのものではありません。特に深い専門知識ない素人でも(百科事典の編集者に最低限要求される程度の基礎知識は要りますが)直感的に充分判断できるものです。
(1)その情報に、素人でも明らかにおかしいと判断できるレベルの誤り(あるいは、誤りと誤解されても仕方がないくらいの分かりにくい表現)が含まれている。
(2)著者自身が「考え方の一例を示したが…最終的には司法判断により決定されるべき事柄である」という断りを言ったうえで記述している情報であり、確実な情報として提供されているわけではない。
  • いずれにしろ、情報源の「信頼性」について論争になった場合は、ノートページで議論し、合意を形成して解決することになっていると思います。そしてそのような議論においては、自分の主張をいちいち「信頼できる情報源」で裏付けることは必ずしも要求されていません。このことを説明するのに「出典を示す責任は掲載を希望する側に」を引き合いに出したのが却って拒否反応を招いたようですが、そもそもWikipedia:検証可能性Wikipedia:独自研究は載せないは「記事内容に関するルール」ですから、「ノートページやプロジェクトページ[での議論]には適用されません」[4]。多数の編集者が同意している事柄について、「信頼できる情報源による裏付けがないから評価できない」として議論を拒否するような態度は、不適切だと思います。

以上について、皆様のご意見を聞かせていただきたいと思います。。--Dwy 2011年6月16日 (木) 14:59 (UTC)[返信]

では【出典が《信頼できる情報源である》ということを立証するのは、書き加えようとする側であり、除去を求める側ではない】主旨の要求には根拠がないということでよろしいですか?--大和屋敷 2011年6月17日 (金) 01:45 (UTC)[返信]

混ぜっ返すわけではありませんが、根拠はあると思います。即ちWikipedia:検証可能性#出典を示す責任は掲載を希望する側にです。問題は、該節の『出展を明記すべきです。定評のある情報源がない場合、その話題に関する記事はウィキペディアで立てるべきではありません。』に於ける『べき/べからず』の持つ(Wikipedia内の)法的ルール的強制力の解釈の相違にあるのではないかと思います。
この法的ルール的強制力の解釈に関し、私はDwy氏の強硬な行動に賛成することは難しいと考えています。ですが大和屋敷氏の、強制力のある「作法」を得ようとする姿勢に賛成することは、私には出来ません。
あとお願いなのですが、大和屋敷氏にはどれへの返信なのかわかるようにインデントを入れていただけないものかと思います。先の件に関しDwy氏に返信を書こうと思っていたのですが、インデントを入れていただけないので読む人の混乱を招くかと思うと書き難いのです。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年6月17日 (金) 04:28 (UTC)[返信]
大和屋敷さんへ:Dwyの主張は、【除去を求める側には出典を提示する義務はないのだから、「出典を出さなければ、議論に応じられない」という態度は間違っている】ということだけです。【出典が《信頼できる情報源である》ということを立証するのは、書き加えようとする側であり、除去を求める側ではない】のような要求をした覚えはありません。(あんまりわけのわからない質問をして、議論を難しくしないでほしい)--Dwy 2011年6月17日 (金) 16:16 (UTC)[返信]

他のみなさんへ:以下、Dwyが主張していたこと[5]を再掲しますので、考え方が正しいか、それとも間違っているか、コメントをいただきたいとおもます。

  • 出典を示す責任は掲載を希望する側にあるとされており、不適切と思われる記述に異議を唱える側には出典を出す義務は課されていません。この場面で(=記述を除去しようとする者のノートページでの議論に対して)Wikipedia:独自研究は載せないを持ち出すのは、ちょっとピントが外れています。
  • Wikipedia:独自研究は載せない#信頼できる資料では、「『信頼できる』という語に明確な定義はありませんが、大部分の人は直感的に判断できます」と言っています。出典の信頼性評価に際して、別段の出典を引用することは必ずしも要求されていません。
  • とはいえ、議論がこじれた時などは、信頼できる情報源に基づいて議論する方が話がまとまりやすいですから、その意味では出典の提示を求めることが有益な場合もあるでしょう。しかしこれはWikipedia:検証可能性Wikipedia:独自研究は載せないとは次元の違う話ですから、基本的・基礎的な事柄については「教科書を読んでください」で充分ですし、議論に参加している多数派の人が「常識」と認めるようなことについては(そもそも話がこじれていないのだから)それ以上の出典による検証は不要です。

よろしくお願いします。--Dwy 2011年6月17日 (金) 16:52 (UTC)[返信]

異議を唱える側には出典を出す義務は課されていません
義務違反によって却下されているわけではなく、専門知識を(例え初歩であれ)必要とする議論に於いて、それを持たない者が妥当と判断する出典に対し、専門知識を持つと名乗る一ウィキペディアンの意見のみで対抗することの妥当性を認めることは(少なくとも専門知識を持たない者には)難しい話だと思います。ピントがズレているのはお互い様だと思うのです。
相手の態度を頑なにさせてしまった点に関しては、もう少し譲歩を引き出せるように努力を行っても良かったのではないでしょうか。総論としては出典による検証は不要な問題だと同意しますが、未熟者に対する態度としてはいただけないと思います。暴力を容認する環境で無い限り、どんな子供でも経験によって多数派の人が「常識」と認めるようなことについてはそれ以上の検証は不要と見ることが妥当だということを学習するものです。その経験とは即ち、多数派の人が「常識」と認めるようなことについては明確な根拠があることを幾度と無く目の当たりにさせられるという経験です。無理強いするわけではありませんが、もう少し、未熟者が熟達者となることに手を貸してやろうと考えてはいただけないものでしょうか。Wikipediaの未来の熟達者の為に。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年6月18日 (土) 02:01 (UTC)[返信]
一応言い訳しますけど、私は(その他の方も)「素人でもちょっと調べればすぐ分かる」と主張していただけで、「専門知識を持つと名乗」ったことはありません。また、複数(多数派)のウイキペディアンが情報源の信頼性に疑義を表明されており、決して「一ウィキペディアンの意見のみで対抗」していたわけではありません。だからこそ、大和屋敷さん自身も、上の発言の中で「この主張には相応の説得性があり」と認めておられるのだと思います。
それから、私の議論の仕方が「相手の態度を頑なにさせてしまった」のではありません。大和屋敷さんは「出典の信頼性について編集者間で議論することは独自研究にあたる」と信じ込んでておられるので、実質的な議論に参加することそのものを最初から頑なに拒否されているのです。--Dwy 2011年6月18日 (土) 09:56 (UTC)[返信]

どうやら議論のテーマが別のところにいってしまっているので、そろそろこのトピックは閉じたらどうですかね。情報源が信頼できるかできないかは結局「その情報源はどれだけ査読・検証が行われているか」が重要で、「表現がおかしい」とか「細かな間違いがある」を根拠にしていたらこの件のように泥沼になるだけ。Dwyさんの主張の一部は正しいが、信頼できないとする根拠が間違っている。--Afaz 2011年6月18日 (土) 03:10 (UTC)[返信]

ここでの議論のテーマは、
  • 「情報源の信頼性について信頼できる情報源に基づかない主張を行うことは独自研究に当たる。出典がないならDwyは引込め」なのか、
  • 「ノートでの議論には出典の提示は不要だから、大和屋敷さんは議論に応じるべき」なのかです。
他の論点については後で記事のノートで議論することもできますが、上記の点についてはもう少しはっきりした結論が出ないと、科学における不正行為での問題が永遠に解決しません。今このままこのトピックを閉じるのは困ります。どちらが正しいのか皆さんのご意見をいただけないでしょうか。--Dwy 2011年6月18日 (土) 09:56 (UTC)[返信]
Dwyさん側が出典を提示する」って選択肢はないんですか?義務はないで突っぱねるのは結構ですが、その結果が今の泥沼化だと思うんですけど。出典を出せば解決する問題なのに、「そんな義務はないから」で拒否し続けても解決が遠のくだけですよ。--LEFR 2011年6月18日 (土) 10:08 (UTC)[返信]
  • 出典を出せるものについて出さないと言っているわけではありません。上でも言いましたが、論争になった時には信頼できる情報源に基づいて議論する方が話が早いことは分かっています。でも、そういうときの出典提示はあくまで議論をまとめるための一手段にすぎず、Wikipedia:検証可能性に基づく義務としてやることではありませんから、「出典がないのなら議論に応じられない」とか「多数の人が同意しているし、私自身も相応の説得性があると思うが、出典が提示されない限り独自研究なので賛成できない」のような言い方はおかしいと言っているのです
  • 「出典を出せば解決する」とおっしゃいますが、一つ一つの論点のすべてに対していちいち出典を出していくのは、ほとんど不可能です。科学における不正行為の例で言うなら、複数の編集者がかなり親切に説明しても[6][7]「出典のページ数が書いてないから評価していない」のように言われてしまう可能性があるわけで、[8]。最終的に大和屋敷さんを納得させたかんぴさんの力作みたいなのを一つ一つの論点に対して要求されたら、どうにも対応のしようがありません。
  • ノート:科学における不正行為の議論をどの程度把握して「泥沼化」とおっしゃっているのか分かりませんが、大和屋敷さん以外の編集者間では概ねコンセンサスができていると言ってよい状態であり、大和屋敷さん自身もDwyたちの主張について「この主張には相応の説得性があり」と認めているわけです。要するに、大和屋敷さんはWikipedia:検証可能性Wikipedia:独自研究は載せないがノートページでの議論にも適用されると誤解されているので、多数派の意見に同調するのをためらっておられるだけです。だから、みなさんにその誤解を解くための協力をお願いしているのです。--Dwy 2011年6月18日 (土) 14:50 (UTC)[返信]
全く以ってその通りだと思いますが、今はAfaz氏に『それは科学における不正行為を解決する話であって「ここでの議論のテーマ」ではない』と指摘されているのですよね。だからトピックを閉じませんかと。
この議論をDwy氏がぶち上げたのならまた流れは違ってくるとは思うのですが、ぶち上げたのはDwy氏の論敵である大和屋敷氏なのでややこしくなっているのですよ。何しろここでDwy氏が大人な判断として出典を出すことが、井戸端で短絡的な二分法に基づくルールを求める大和屋敷氏の行動を肯定することになって欲しくないですから。非専門分野のウィキペディアンが我侭を通す為に専門分野のウィキペディアンに必要以上に負担をかけて議論の場から追い出す為の武器を与えることは、Wikipediaの将来にとって好ましくないのです。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年6月18日 (土) 10:37 (UTC)[返信]
なるほど、それはごもっとも。科学における不正行為の議論を解決するだけならそれでもいいですが、それをそのまま井戸端の結論にするのはよろしくありませんね。でも、信頼できる情報源があれば、情報の真偽は問わないのがWikipediaのルールですからねえ。信頼できる情報源による誤った情報を訂正するのにそれなりの労力が必要なのは仕方のないことではないかと。--LEFR 2011年6月18日 (土) 10:50 (UTC)[返信]
そこで本件議論の争点が発生するわけですよ、参議院公表資料が「信頼できる情報源」であるか否かに関して。「信頼できる情報源」の線引きが曖昧な所為で。困ったもんです。--世界最狂の魔法使いCray-G 2011年6月18日 (土) 11:01 (UTC)[返信]
参議院公表資料が「信頼できる情報源」であるか否かは、ここ(井戸端)での争点ではありません。大和屋敷さんも「この参議院の公表している文書そのものの信頼性の実質については、なるべく井戸端の話題にしない方向性でお願いしたいです」とおっしゃっています。ここでの争点は、あくまで
「情報源の信頼性等を議論する際には論拠として出典の提示が必要であり、それがなければ独自研究になる」
vs
「情報源の信頼性等は、自由な議論による合意で決定すればよい。信頼できないこと(信頼できること)について根拠となる出典の提示がなくても、編集者間で合意ができれば、それで何の問題もない」
です。--Dwy 2011年6月18日 (土) 14:50 (UTC)[返信]
その二択で言うのならケース・バイ・ケースであり、どちらと断定するのも好ましくないでしょう。科学分野の記事でオカルト雑誌を情報源にされていたら、出典の提示しなくても信頼性なしと判断したいですし、編集者間の合意があっても信頼できるとしたくはないので(例えとしては上手くありませんが)--117.53.16.3 2011年6月18日 (土) 17:49 (UTC)[返信]
「編集者の合意があっても信頼できるとしたくない」というのが分かりにくいです。科学分野の記事でオカルト雑誌が情報源なら、ふつうは信頼できると合意できないですよね。信頼できるという合意があるということは、例えば「最近編集方針が変わってまじめな科学雑誌に変身した」とみんなが認めているというようなことだと思います。そういう場合に、一人の編集者が「出典がなければ信頼できると認めない」とダダをこねたら、他の大多数の人の判断には従えなくなるということですか?(「独自研究」だと主張する人の理論によれで、出典を見つけてこない限り、ダダをこねている人に説明を試みることさえ許されないと言っているわけですが…?)--Dwy 2011年6月20日 (月) 13:11 (UTC)[返信]
すみません、やはり上手くなかったですね。編集者の合意についてですが、訪問者の少ない記事では稀に「まじめな科学雑誌に変身していないオカルト雑誌」でも合意が取れてしまう場合がありますのでそういうケースを想定しています。--117.53.16.3 2011年6月22日 (水) 04:40 (UTC)[返信]
たとえ議論への参加者が少数であっても、合意は合意として尊重されるべきだと思います。どうしても納得できなければ、コメント依頼等で新たな編集者を議論に呼び込んだりして「信頼できない」という新たな合意を形成すればよいことですし。そういう合意形成の手間をすっ飛ばして、誰かが「独自研究」と魔法の呪文を囁くだけで、いきなり合意が覆って「信頼できない情報源」になってしまうというのはおかしいと思いませんか?--Dwy 2011年6月22日 (水) 15:56 (UTC)[返信]
私としては最初に申し上げた通り、ケース・バイ・ケースであると判断しています。--117.53.16.3 2011年6月24日 (金) 05:17 (UTC)[返信]
検証可能性は記事の信頼性を高めるひとつの方法であって、すべてではありません。信頼できる情報源が何であるか決めることも同じです(「信頼できる情報」ではなく情報であることにも留意する必要があるでしょう。)。検証可能な事柄であったとしても、それを基にどういう記述をするかは編集者によるでしょう。あいまいな解説しかできなかったり、あまり関連性がなさそうなものであれば、そもそも書かないと言う選択肢もありえます。そういった判断は情報源の信頼性だけで決められるものではありません。重要なことは、実際に記事でどういう記述をするのかを目的として議論することでしょう。--有足魚 2011年6月18日 (土) 11:50 (UTC)[返信]

大和屋敷の主張は【信頼できる情報源から適切に引用されている限り、「除去を求める側には出典を提示する義務はない」という反論は何の意味もなく、「出典を出さなければ、議論に応じられない」という態度が正しい】ということです。これはDwyさんの主張[9]に明確に対立しています。「信頼できる情報源から適切に引用している」かぎり、他の編集者は根拠なく削除できないはずだという主張になります。他の編集者がその記述を削除するためには①その記述が記事の文脈にまったく無関係(Non-cense)であることを抗弁するか②その記述が適切に引用できていない抗弁をするか③その引用元が信頼できないことを抗弁するか、だけであり、それ以外に削除できる理由はない。それ以外に残された方法はせいぜい④その引用元が公開する情報とは別の「信頼できる情報源」からの情報を加筆し読者に注意を喚起するか(中立的な観点)⑤その加筆者を個人的に説得して(あるいはWikipediaから追放するなどして)加筆を断念させるか、のいずれかだけのはずです。--大和屋敷 2011年6月20日 (月) 22:17 (UTC)Dwyさんの二分法[10]は微妙に論点が合致しておらず、【ノートでの議論には出典の提示は不要だから、大和屋敷は議論に応じるべき】だと言えますが、しかしノートでの議論に(納得いくまで)応じないということは記事から記述を削除できる合理的な理由にはなりません。ノートではどのような独自研究の公表も認められています。しかしこの事と記事から記述を削除できるかどうかは無関係です(誤謬)。つぎに「信頼できる情報源」に明確に記述されていることを、他の信頼できる情報源が明確に否定していても、先の記述を除去する理由にはなりません(ここが重要です!)。これは中立的な観点によるものです。「独島は歴史的に朝鮮だ」との主張が信頼できる情報源に記述されておりそれを適切に引用しているかぎり、「竹島は国際法上日本だ」という信頼できる情報源によってもその記述をWikipediaから追放(削除)することはできません。--大和屋敷 2011年6月20日 (月) 22:39 (UTC)[返信]

論点がズレてきていませんかね。本節の主題としては【情報源が「信頼できない」と主張するための条件】であって、「信頼できる情報源から適切に引用されているものを除去する正当性の有無」ではないのではないでしょうか。確かに大和屋敷氏の本音として出したい結論は後者なのかも知れませんが、だとすればそれは明確に「希望する結論を出す為に作為的な一般論(=本節の主題)をぶち上げて議論を誘導する」という、それこそ「論点のすり替え」に相当すると思うわけです。つまり、本節の立ち上げそのものが。なので私は厳に慎むべき行為であると言っています。
除去に関しては、未だ合意が得られておらず充分に疑義を認め得る内容として、合意が得られるまでの当面の間は除去しておく、という次善の策としてリバートされることは良くあることです。何かが書き込まれた、内容に疑義が出されているが結論は出ていない、とりあえず書き込まれる前の状況に戻しておいて議論を続けよう、というのは順当な判断の一つであり、重大な過失ではありません。最初のアクションが書き込まれたのではなく除去された、であれば、除去される前に復帰してから、となるでしょう。これは即ち書込除去等のアクションに先立って提案し議論を行なっているのと同じ状況を作り出しているからです。この状況自体に何等の瑕疵は無く、全く問題が無いのはご理解いただけると思います。これが除去の理由でしょう。
逆を言えば、大和屋敷氏の保護依頼は「提案に反対されたから強行し、議論も説得も無しに除去を断念させる為に保護をした」のと全く同じ状況であることもまた、ご理解いただけるかと思うですが、如何でしょうか。
蛇足ながら付け加えておきますと、除去する場合にはざっと二種類のケースがあります。即ち長らくWikipediaに記載されたまま放置されていた内容を除去するケースと、つい先頃に書き加えられた内容を除去するケースです。大和屋敷氏の言うのは(そして一般論で言うのは)前者であり、件のDwy氏によるものは後者です。両者には差異があり、それは十把一絡げに扱って良いほど小さな差異ではありません。その差異は、先の「アクションに先立って提案し議論を行なっているのと同じ状況」になるか否かに関わっています。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年6月21日 (火) 01:43 (UTC)[返信]
まったく世界最狂の魔法使いCray-Gさんのおっしゃる通りで、論点がずれていると思います。そもそも「信頼できない」と主張している人の存在を認識しているにもかかわらず「信頼できる情報源から適切に引用されている限り」という設定にしてしまうということは、「自分が納得できない他の人の主張は最初から認めない」と言っているのと同じではないでしょうか。前にも指摘済みですが、件の論文の記述を「信頼できる」と判断しているのは大和屋敷さんだけで、議論に参加している編集者はほとんど全員、論文の信頼性に大なり小なり疑義を表明していることを見てほしいと思います。
それから、科学における不正行為における編集の経緯[11]については、人によって解釈が違うと思うので、私としての認識を、以下、簡単に説明させていただきます。
  • 2011年6月12日 (日) 06:23: Dwyの最初の編集[12]。ほぼ同時に、編集の理由をノートで説明[13]
  • 2011年6月12日 (日) 06:33: 10分後、大和屋敷さんによる差戻し[14]。ほぼ同時に、「『信頼性に欠ける』と確認できる信頼できる情報源の提示」をノートにて要求[15] [16]
  • 2011年6月15日 (水) 11:53: 大和屋敷さんの差戻しに対してTrcaさんから反対意見の表明があり[17]、Dwyからも再度説明を行った上で[18]、大和屋敷さんの反論を待った。3日待っても何も反論がなかったので(その間、大和屋敷さんはほかの記事の編集には参加されていたので)、コンセンサスが成立したと判断し、編集を再実行[19]
  • 2011年6月15日 (水) 11:56: わずか3分後に大和屋敷さんが再度差戻し[20]。要約欄に「信頼できる情報源からの引用を戻す(2回目)」とある以外は、まったく説明なし。
  • 2011年6月15日 (水) 12:32: 大和屋敷さんの説明があるのを30分くらい待ったところで「ひょっとしたら議論する気がないのかもしれない」と疑心暗鬼に駆られ、議論開始を促す意味も込めて、要約欄に「当該情報源を『信頼できる』と考えているのは大和屋敷さんだけです」と指摘したうえで、編集再実行[21]
  • 2011年6月15日 (水) 14:38: 大和屋敷さんによる保護依頼[22]
  • 2011年6月15日 (水) 14:41: 大和屋敷さんによる再度の差戻し[23]。少し遅れて、ここ(井戸端)での問題提起。
要するに、保護依頼の文章等から判断すると大和屋敷さんは私のことを「根拠のない主張を繰り返す荒らし」の類として扱っておられるようですが、私としては「コンセンサスが成立した(と判断してもよい状況になった)から編集を再実行した」という認識でしかないわけです。(世界最狂の魔法使いCray-Gさんの「未だ合意が得られておらず充分に疑義を認め得る内容として、合意が得られるまでの当面の間は除去しておく」という認識とも、私の理解は微妙にずれていますね)--Dwy 2011年6月21日 (火) 16:27 (UTC)[返信]
私の言ったのはそもそも「本節の議題自体が誤っている」ことを示す為の反例であって、実際に何が起ったかの解説ではなかったものですから。不用意な書き方をしてしまった点についてはご容赦を。
いづれにせよ私は、本件ではDwy氏にも(些少かも知れませんが)非はあったと認識しています。非が無かったならば恐らく本件は、大和屋敷氏に対するコメント依頼やブロック依頼に発展し得たであろう問題だと認識しているからです。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年6月22日 (水) 04:13 (UTC)[返信]
Dwyさん。ちょっとおちついて全体の流れを把握してくださいませんか。そもそも、Dwyさんは、大和屋敷とgestgestさんとが編集合戦になっているところに途中参加された経緯があります[24]。このgestgestさんはすぐに編集活動を停止されDwyさんが同じ立ち居地から議論に参加されていましたので、(今明かしますが、当初はgestgestさんはDwyさんのソックパペットなのではないのかと大和屋敷は悪意にかんぐっておりましたので、)すでにgestgestさんと編集合戦になっていた経緯からDwyさんの編集を含め(これはgestgestさんの編集内容[25]を、Dwyさんが同じ文脈で反映させる方向で[26]編集したもので、参議院事務局・平田2006-10-27からの引用を削除するもの)いきなりリバートしたわけです。途中から議論に参加されたのですから多少は前後の経緯を押さえてもらいたいです。これじゃ一方的に大和屋敷が「根拠なくリバートしている荒らし行為者」だと都合よく非難されているようにしか思えませんよ。よろしくお願いしますよ。--大和屋敷 2011年6月22日 (水) 06:13 (UTC)[返信]
これじゃ一方的に大和屋敷が「根拠なくリバートしている荒らし行為者」だと都合よく非難されているようにしか思えませんよ
そりゃ「検証可能性の有無に関わらず常識知らずな私は出典を出さない限り議論に応じるつもりは無いが自分の書き込みを除去されたのでリバートして保護依頼しました」という態度を取っていれば、荒らし行為者呼ばわりされても仕方が無いのではないでしょうか。挙句の果てに反省するどころか井戸端にまでやって来て多数のウィキペディアンを巻き込んだ騒ぎを起こすようでは、荒らしのように見えるが荒らしではないものの範疇を超えています。
それは荒らしのガイドラインにわざわざ「荒らしではない」と明記される程に荒らしと区別を付け難い不適切な編集態度なのです。
大和屋敷氏に不適切な編集態度を改めていただきたいのです。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年6月22日 (水) 07:13 (UTC)[返信]
正直なところ大和屋敷さんが「前後の経緯」云々で何をおっしゃりたいのか全く理解できないのですが、少なくとも、「悪意にかんぐって」いたことは「いきなりリバート」を正当化する理由にはならないと思います。--Dwy 2011年6月22日 (水) 15:56 (UTC)[返信]

焦点がズレているとの指摘がございましたので、もう一度、これは確認になるのですが論点を整理したいとおもいます。論題は「情報源として提示された引用元が信頼できないと主張するために必要な条件は何か?」ということです。「(より信頼できるものがあれば)信頼できる側を選択すべき」[27]であるが、ここで重要なのは「出版元が信頼できる組織であるか云々よりも、引用内容が正しいか否か(は完全に別の問題)であって、その考量から《信頼できる情報源である》という合意を形成すべきである。出典が《信頼できる情報源である》ということを立証する必要は全く無い」[28]。信頼できる情報源が却下される例の一つは、その記述に対して、より信頼できる情報源を参照し、その内容と、最初に示されていた「【信頼できる発行元】の情報」の情報を比較して、どちらがより信頼できるかを考えて、合意に達した場合が考えられる[29]。一方でこの考え方には反論があり、一方を記事に反映させるのではなく正しい作法は両論併記である[30]とする。むしろ両論併記でない編集方針は独自研究の危険があり避けるべきであり中立性には最大限配慮すべきである[31]。情報源が「信頼できない」と主張するための条件はせいぜい 1.その情報源が匿名である。 2.自由に改竄が可能で、情報が固定されていない。3.虚偽の情報の掲載、引用の捏造等を行っている、といったものである[32]。なお情報源の「信頼性」について論争になった場合は、ノートページで議論し合意を形成して解決することになっており、ノートの議論においては自分の主張をいちいち「信頼できる情報源」で裏付けることは要求されていない[33]。でも、信頼できる情報源があれば、情報の真偽は問わないのがWikipediaのルールであり、信頼できる情報源による誤った情報を訂正するのにそれなりの労力が必要なのは仕方のないことである[34]。Dwyさんの主旨は【情報源の信頼性等は、自由な議論による合意で決定すればよい。信頼できないこと(信頼できること)について根拠となる出典の提示がなくても、編集者間で合意ができれば、それで何の問題もない】[35]であるが大和屋敷の主張は【信頼できる情報源から適切に引用されている限り、「除去を求める側には出典を提示する義務はない」という反論は何の意味もなく、「出典を出さなければ、議論に応じられない」という態度が正しい】、他の編集者がその記述を削除するためには①その記述が記事の文脈にまったく無関係(Non-cense)であることを抗弁するか②その記述が適切に引用できていない抗弁をするか③その引用元が信頼できないことを抗弁するか、だけであり、それ以外に削除できる理由はない。それ以外に残された方法はせいぜい④その引用元が公開する情報とは別の「信頼できる情報源」からの情報を加筆し読者に注意を喚起するか(中立的な観点)⑤その加筆者を個人的に説得して(あるいはWikipediaから追放するなどして)加筆を断念させるか、のいずれかだけのはずだ、と主張しています[36]。--大和屋敷 2011年6月22日 (水) 07:06 (UTC)さらに要約します。ここからは大和屋敷の理解する要約です。Dwyさんは「情報源として提示された引用元が信頼できないと主張するために必要な条件は何か?」という論題について「必要な条件など何もない、内容に合理的な疑いがあることをノートで指摘できればそれで良い」とします(間違っていたら指摘おねがいします)。大和屋敷は「情報源そのものが信頼できないという外形的な批判のみが可能である」と主張します。Afazさんの例示されるような外形基準(匿名であったり、改変が可能であったり、信頼できそうな外形的基準を満たしていない(-学部生の卒論だったり、教研集会のペーパーであったり、大学の講義ノート程度-))をクリアし、世間一般で常識的に信頼できると敬意をもたれている発行体から公表されたものは、原則的に削除できない」とするものです。--大和屋敷 2011年6月22日 (水) 07:06 (UTC)この差は重大であり、Dwyさんの方針によれば参議院事務局・平田2006-10-27の文書には合理的な疑いがあり、この文書の採用は却下され、その記述を根拠にしたWikipedia編集は一切できない可能性があります(《信頼できない情報源》扱い)。一方で大和屋敷は参議院事務局という外形基準にのみのっとり《信頼できる情報源》と断定してしまいます。内容が本当は問題があろうが間違っていようが関係なしです。この大和屋敷の引用は適切に行われている限り、他のどのようなWikipedia編集者も削除することはできない、と主張するものです。せいぜい①その記述が記事の文脈にまったく無関係(Non-cense)であることを抗弁するか②その記述が適切に引用できていない抗弁をするか③その引用元が信頼できないことを抗弁するか、だけであり、それ以外に削除できる理由はない。それ以外に残された方法はせいぜい④その引用元が公開する情報とは別の「信頼できる情報源」からの情報を加筆し読者に注意を喚起するか(中立的な観点)⑤その加筆者を個人的に説得して(あるいはWikipediaから追放するなどして)加筆を断念させるかだけが他のWikipedia編集者に可能な行為である、こう主張するものです。(むろん参議院事務局・平田により撤回されるなり、他の信頼できる情報源から明確に批判され論難されているような論文があれば、それはWikipedia編集検討上ひじょうに重要な情報になります)--大和屋敷 2011年6月22日 (水) 07:06 (UTC)[返信]

  • まず、論題は「情報源として提示された引用元が信頼できないと主張するために必要な条件は何か?」であって、「信頼できる情報源を却下できる条件は何か?」ではないことをご確認ください。科学における不正行為の議論においては、当該情報源が「信頼できる」と合意されているわけではありませんから(というか、大和屋敷さん以外の編集者間では「信頼できないand/or使わない方が良い」という合意が成立していると言ってよい状況ですから)、情報源が信頼できることを前提に議論しても、問題解決のために何の役にも立ちません。この点が確認できれば、大和屋敷さんが挙げておられる論点のかなりの部分が、ここでの論点ではなくなります。
  • これまで既にかなりの議論を費やしてきたわけですが、「話し合って合意を形成しなさい」という趣旨の意見はあっても、「出典を出さなければ、議論に応じられないという態度が正しい」に賛成した方はいらっしゃらなかったと思います。そのあたりについては、どのようにお考えなのでしょうか?井戸端で問題提起をされたのは他の方々の意見を聞くためだったはずですし、せっかくいろんな方の意見をいただいたのだから、知らんぷりは失礼だと思うのですが。
  • 「外形的な批判のみが可能である」とか、急に新しい論点が増えているような気がしますが、これまで話し合ってきたことを総括してから前に進んだ方が良いと思うので、まず上記の点についてご回答ください。--Dwy 2011年6月22日 (水) 15:56 (UTC)[返信]

ちょっとまってください。Wikipedia:信頼できる情報源のどこに「情報源の信頼性は編集参加者の合意により採択される(云々)」と記述されているのでしょうか?むろんこのガイドラインは草案ですので記述されていなくてもその論理を明確に否定することはありませんが、「情報源の信頼性は編集参加者の合意により採択されるべきだ」と主張されたいのであれば、まずそちらをWikipedia:信頼できる情報源で提案してきてもらえませんか?この件について言及しているのはWikipedia:検証可能性#情報源/ソース「記事は、事実確認と正確さについて定評のある、信用できる第三者情報源に基いて書くべき」Wikipedia:独自研究は載せない#信頼できる資料「「信頼できる」という語に明確な定義はありませんが、大部分の人は直感的に判断できます。」くらいしか大和屋敷は発見できていません。そしてその判断基準に誠実にのっとり採用した文献資料(参議院事務局平田2006-10-27)の信頼性を「どこの誰とも分からない、匿名のWikipedia編集者」の方に(直接その話題について言及(批判)した文献を引用することなく)否定されているのです。これでは困ります。そもそも「情報源の信頼性は編集参加者の合意により採択される(云々)」とは明示されていないのにそのように主張されており、善意でその主張に同意して信頼性の評価に協力しようと考えても、直接その話題について言及(批判)した文献を引用することなく否定されるばかりです。これじゃどうしろというのですか?参議院事務局平田2006-10-27の信頼性を否定したいのなら、「どこの誰とも分からない、匿名のWikipedia編集者」である「あなた」の言葉ではなく、参議院事務局平田2006-10-27の信頼性を否定している(あるいは参議院事務局『立法と調査』誌の信頼性を批判・否定している)外部の信頼できる別の文書を探してきてくださいとお願いするしかないんじゃないでしょうか?--大和屋敷 2011年6月23日 (木) 19:06 (UTC)[返信]

Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは規則主義ではありませんをご覧下さいとしか………引用すると『見解の不一致は、規則や手続きに固執することによってではなく、合意形成を重視した議論によって解決してください。さらに、方針やガイドラインそのものも合意の変遷に応じて変化し得るものです。』に基づいていると言って良いと思います。
それに関して大和屋敷氏は議論ではなく出典に基づいて合意を形成しようとし、「自分の履歴書に嘘の履歴を書いても私文書偽造には当たらない」と書かれた出典を出さないなら議論に応じないという限定的な対話拒否を行なっています。「自分の履歴書であれば嘘の履歴を書いても私文書偽造には当たらない」とか書いてあるなんて、どんな法の抜け道を紹介する素人騙しの怪しいハウツー本なんでしょうかね。
さて、大和屋敷氏が議論に応じるのであれば、如何に『自分の履歴書に嘘を書いても「私文書偽造罪」が成立しないなんていうことは、ちょっとまじめに勉強した人なら誰でも知っているくらいのレベルの知識』であるかを検証することは充分に可能だと考えるのですが、大和屋敷氏は示された参考資料に「怪しいハウツー本の如き文言がそのままには載っていなかった(及びそれが「常識である」と書いていなかった)」ことを理由に、検証不能であると主張しています。
問題となっている怪しいハウツー本の如き文言とは、「私文書偽造罪の保護法益」や「法で言う偽造とは何か」から論理的に導かれる結論です。論理的に導くことを拒否して文言通りに記載された出典を求める大和屋敷氏の態度は、ウィキペディアンに怪しいハウツー本を探させる労を強いる悪質な態度です。
偽造とは何か
:名義人(文書の場合;製品であればロゴメーカー等)を偽り(=名義人の承認を受けずに)別の製造者が製造することを言います。
これは示された文献に(文書の場合に限ってですが)載っています。故に、自分の名義である物(=文書)を自分が意図して製造した場合は偽造ではありません。この段階でもう「詐称した自分の履歴書を書くこと」はそもそも偽造にさえあたらず、当然に私文書偽造にあたらないことは論理的に自明です。
それを「検証不能」として方針を盾に議論に応じないのは不適切な編集態度です。コミュニティーを消耗させないで下さい。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年6月24日 (金) 03:07 (UTC):[返信]
ここまでに出ている参議院の資料に関しては、検証可能性の観点において「優良」とは言えなくとも、「可」ではあると思います(この編集は、そういった観点に基づくものでしたが、問題の本質から外れた発言であったと反省しています。)。ただ、検証可能性(および信頼できる情報源)というのは、ウィキペディアに記述「してよい」事柄を説明するものであって、記述「しなければならない」ものを示すものではありません。情報源の信頼性が否定されなくとも、記述自体がふさわしくないとされることはありうることです。記述の正当性は情報源だけが担保するものではありません。記述の仕方によってはもっとやりようがあるようにも見えますが、信頼できる情報源かどうかの議論にこだわり続ければ、解決は遠のくばかりでしょう。また、ウィキペディアは議論の場ではなく、議論は百科事典の編集に役立つものでなければなりません。もし議論にかかる労力が、論争を解決することによって得られる利益(記事の発展)を超えてしまうのなら、妥協を考えるべきでしょう。たとえば、そういった論争に第三者が関わりたいと思うでしょうか?解決の望みが薄いなら、同じ主張を繰り返すことは意味のないことです。ウィキペディアの方針は法律のように厳格なものではなく、何でも方針で割り切る必要はありません(もしそうでなければ、弊害のほうが大きくなるでしょう)。--有足魚 2011年6月24日 (金) 09:29 (UTC)[返信]
論争を解決することによって得られる利益(記事の発展)を超えて
論争を解決することによって得られる利益には、これまでWikipediaに多くの貢献をしてきた大和屋敷氏に、今まで以上に適切にWikipediaに貢献してもらえるという利益もあると思うのです。
大和屋敷氏に理解してもらえるように議論を行なうことは、単に議論回避の為に保護されてしまった記事の保護解除にとどまらない相応の利益があると考えます。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年6月24日 (金) 10:10 (UTC)[返信]

「どこに書いてあるのでしょうか?」という意味では、「大部分の人は(=どこの誰とも分からない、匿名のWikipedia編集者であっても)直感的に(=直接その話題について言及(批判)した文献を引用することなく)判断できます」ということで、これ以上ないくらい明確に書いてあるんですけど・・・?それから、この一文の素直な解釈として、「編集者間で意見が分かれたときは、みんなの意見を聞いて「大部分の人」がどう判断しているかを見ればよい」ということになります。--Dwy 2011年6月24日 (金) 10:32 (UTC)[返信]

Cray-Gさんに申し上げますが個人攻撃は止めてもらえませんかね。「私見として・・大和屋敷氏自身が不適切な(誤った)論法(は)・・詭弁や誤謬を行わせる結果になりがちなので・・議論誘導であり、厳に慎むべき行為だ」[37]「大和屋敷氏が「信頼できる情報源」として挙げた参議院なんちゃら(←詳しく見ていませんが)・・」「(大和屋敷のように)ルールに則ってゲームを行ない論敵の意見を却下することではありません」[38]「だから(大和屋敷のような)思考停止して内容のことは棚上げしましょう、という意見には賛同出来ない」[39]「ぶち上げたのはDwy氏の論敵である大和屋敷氏なのでややこしくなっている。何しろここでDwy氏が大人な判断として出典を出すことが、井戸端で短絡的な二分法に基づくルールを求める大和屋敷氏の行動を肯定することになって欲しくない」「非専門分野のウィキペディアン(大和屋敷)が我侭を通す為に専門分野のウィキペディアンに必要以上に負担をかけて議論の場から追い出す為の武器を与えることは、Wikipediaの将来にとって好ましくない」[40]「確かに大和屋敷の本音として出したい結論は後者かも知(れないが)、一般論をぶち上げて議論を誘導する(など)これこそ「論点のすり替え」に相当する。つまり、本節の立ち上げそのものが。なので私は(大和屋敷は、今般のような井戸端に議論を持ち込むような行為は)厳に慎むべき行為であると言っています」「大和屋敷の保護依頼は「提案に反対されたから強行し、議論も説得も無しに除去を断念させる為に保護をした」のと全く同じ(行為だ)」[41]「恐らく本件は、大和屋敷氏に対するコメント依頼やブロック依頼に発展し得たであろう問題だ」 [42]。当初からCray-Gさんは一貫して個人攻撃の言動を繰り返されています。コミュニティーを消耗させないで下さい。恐らく本件は、Cray-G氏に対するコメント依頼やブロック依頼に発展し得たであろう問題だと考えます。--大和屋敷 2011年6月24日 (金) 12:20 (UTC)[返信]

Dwyさんへ。信頼できる情報源の判定方法は「大部分の人は直感的に判断できます」。そうです。その直感に従い大和屋敷は参議院事務局「立法と調査」を選択したわけです。事実関係まちがっていませんね?その記述(日本の法令上、実験データの捏造や改ざんについては、行為そのものを直接禁止し、違反したものを罰する具体的な規定を含む法令は無い)を適切に引用したところDwyさんにより削除されたわけです[43]。その根拠はこうです「当該情報源を「信頼できる」と考えているのは大和屋敷さんだけです」。ここまで事実関係まちがっていませんね?さて、Dwyさんがこの情報源を信頼できると考えているのは大和屋敷だけだ、と論じたのには、それ以前に【結論の出ていない】Wikipedia編集者間だけでの検討がありました。これが平田2006-10-27の著作権や文書偽造罪に関するgestgest氏およびDwy氏の反論です。個人的な理解によると、平田2006-10-27の信頼性を否定して本編記事で削除をおこなった方はgestgest氏およびDwy氏のお二人だけです[44]。まず「当該情報源を「信頼できる」と考えているのは大和屋敷さんだけです」というのが意味が分からない(2人対1人の多数決?)。つぎに平田2006-10-27の信頼性が否定できる意味がわからない(参議院事務局よりWikipedia編集者の多数のほうが信頼性のステイタスは上?)。さらに著作権や文書偽造罪に対するWikipedia編集者の批判をもって平田2006-10-27の全部の信頼性を拒否しなければならない理由がわからず、その文書に書かれた字句のすべてを保留しなければならない理由も分かりません。
Dwyさんには6月11日の時点で個人ページの方に対話をさせて頂いており[45]「今般の編集で大和屋敷がもっとも重要だと考えている内容は「日本の法令上、実験データの捏造や改ざんについては、行為そのものを直接禁止し、違反したものを罰する具体的な規定を含む法令は無い。」という一文です。他の点につきましてはご指摘を受け適宜修正され適切なものになっているのではないかと考えております」と明確に述べさせていただいております。大和屋敷が投稿した内容でもっとも重要だと考えている記述は「日本の法令上、実験データの捏造や改ざんについては、行為そのものを直接禁止し、違反したものを罰する具体的な規定を含む法令は無い。」という一文です。この一文を平田2006-10-27を情報源として記述してはいけないのですか?他のWikipedia編集者の方によりつけられた(平田2006-10-27に対する、直接関係しない)クレームを根拠にWikipeida掲載を断念しなければならないのですか?と問うています。もし掲載したいのなら平田2006-10-27が包括的に信頼できることを、掲載を希望する側であるところの大和屋敷が立証しなければならないのですか、ということです。これが冒頭の設問【出典が《信頼できる情報源である》ということを立証するのは、書き加えようとする側であり、除去を求める側ではない】の主旨になります。これは6月12日にDwyさんがリバートを行う直前[46]にDwyさんから提示された論旨から[47]のものです。
大和屋敷としてはDwyさんが平田2006-10-27に対してどのような心象を持たれたのか理解できません。大部分の人は直感的に判断できます。大和屋敷は直感的に信頼できるとし、Dwyさんは直感的に怪しいと判断されたわけです。この場合、Wikipedia編集者間での(よくわからない)専門的知識の優劣比べによって、一方の編集者の意見が他の編集者の意見にステイタスとして優越するとかするのでしょうか?それはおかしいでしょう。いくら専門的知識を持っているかのように見えても所詮「どこの誰とも知れない匿名の」ウィキペディアンでしかありません。Wikipedia:独自研究は載せない#専門家の役割には「ウィキペディアでは、専門家は、その話題に関する個人的・直接的な知識だけではなく、その話題に関して既に発表された情報源に関する知識をも持ちあわせているゆえに、専門家であると考えています」とあります。大和屋敷は一貫して当初から「Wikipediaにおいて専門家としてのステイタスを示したいのなら文献情報を提供してくれ」と述べています[48]。これに対して独自研究を持ち出すのは見当違い[49]と反論される始末です。6月9日にかんぴさんという非常に親切な方が文献情報をもとにご説明頂いた経緯があり[50]、著作権と文書偽造に対しては信頼性に合理的な疑いがあると判断できる状況になりましたが、Dwyさんがくだんの「日本の法令上、実験データの捏造や改ざんについては、行為そのものを直接禁止し、違反したものを罰する具体的な規定を含む法令は無い。」を削除したのは6月12日以降です。そしてその削除の根拠が「信頼性に欠ける情報を除去」[51]「当該情報源を「信頼できる」と考えているのは大和屋敷さんだけです」[52]なるものです。
くりかえしますが、信頼できる情報源の判定方法は「大部分の人は直感的に判断できます」。その結果として情報源の信頼性の認定が競合した場合、合理的な理由さえあればその情報源は【合意により却下】できるのですか。それとも【合意では却下できない】のですか。すなわち情報源が信頼できないと主張するための条件など何もなく合理的にその信頼性を否定できることなのか、そうではなく、他の信頼できる情報源により信頼性を否定されていることなのでしょうか。大和屋敷は、専門家を標榜しWikipedia編集検討でステイタスを得るためには「その話題に関して既に発表された情報源に関する知識をも持ちあわせている」ことが必要だと考えております。信頼できないと主張する(ノートで主張するだけならご自由ですが)ことで記事から記述を削除するには合理的説明だけでは不十分である、特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成によって得られた結論に納得しなければならない理由がないと考えますがいかがでしょうか。--大和屋敷 2011年6月24日 (金) 13:21 (UTC)※上記記述について個人攻撃的なニュアンスがありますので予めお詫び申し上げます。あくまで事例として編集者の方のお名前を出しておりますが、議論の論題として、より一般的なものと解して頂けます様宜しくお願い申し上げます。テーマは「情報源が信頼できない」と主張するために(必要な・充分な)条件とは何か、そのようなものは存在するのかしないのか、という点です。--大和屋敷 2011年6月24日 (金) 13:43 (UTC)[返信]

大和屋敷さんご自身の要望により「参議院の公表している文書そのものの信頼性の実質については、なるべく井戸端の話題にしない方向性」で来たわけですし、ここでは「情報源として提示された引用元が信頼できないと主張するために必要な条件は何か?」に絞って議論しましょうよ。こちらとしては、「大部分の人は(=どこの誰とも分からない、匿名のWikipedia編集者であっても)直感的に(=直接その話題について言及(批判)した文献を引用することなく)判断できます」という形で自分の主張の根拠を示したつもりなのですが、大和屋敷さんは、まだ「出典を出さなければ、議論に応じられないという態度が正しい」という主張を維持されるのでしょうか?(私から見ると、井戸端での話題はこの一点に集約されます。早いとこ、ここでの議論に結論を出して、ほかの論点は記事のノートに帰って議論しましょう)--Dwy 2011年6月24日 (金) 15:30 (UTC)(発言を一部撤回--Dwy 2011年6月24日 (金) 17:15 (UTC)[返信]
上の大和屋敷さんの発言を読み直してみたら、どうも私の主張をちゃんと読んでいらっしゃらない節があるので、以下、少し突っ込みを入れてみます。
  • 2人対1人の多数決?: そうです。「多数決」です(まあ、単純に「多数決」と言い切ってしまうと語弊があるかもしれませんが、おおざっぱにいうと「合意(コンセンサス)」=「大多数の賛成」ですからね)。ちなみに私の理解では、あの時点でTrca さん[53]も入れて3対1でした。(せっかく意見を表明してくださったのに勘定に入れないのは、ちょっとひどいです。どうも大和屋敷さんは反対者の意見をちゃんと読んでいない印象もあります)
  • 専門的知識の優劣比べによって、一方の編集者の意見が他の編集者の意見にステイタスとして優越するとかするのでしょうか: 誰も「専門知識の優劣比べ」などしていません。「こういうよくわからん記述もあるし、この記事はあまり『査読・検証』が行われていないような気がするな」と指摘して、皆さんに判断材料を提供しているだけです。決して「優劣比べ」ではありません。また、百科事典の編集者に要求される最低限の「一般常識」の範囲内でお話ししており、「専門知識」というほどのものはありません。
それからついでに言っておきますが、Dwyは「記述が間違っている」だけを理由に「信頼できない」と主張しているのではありません。ほかにもいくつか「信頼できない」とする理由を指摘済みです。さらに言えば、「信頼できない」が主張のすべてというわけでもなくて、「仮に信頼できる情報源だとしても、この情報は使わない方が良い」という主張もしています(これは井戸端での話題とはあまり関係ないので、ここでは詳しくは述べていませんが)。そういうところもしっかり把握してほしいと思います。
  • その結果として情報源の信頼性の認定が競合した場合、合理的な理由さえあればその情報源は【合意により却下】できるのですか: 「信頼できない」と合意されれば、当然「却下」でしょう。あたりまえじゃないですか?それとも、大和屋敷さんは、「オレがオレの基準で『信頼できる』と判断したからには『信頼できる』に決まっている。ほかの人が何人反対していても関係ない」とおっしゃりたいのでしょうか?--Dwy 2011年6月24日 (金) 17:15 (UTC)[返信]
もうすでに答えは出ているのではないかと思います。方針などで用いられる「情報源の信頼性」とはその発行元や著者によって判断されることであり、その内容(情報の信頼性)を編集者が独自に判断することまでは求められていないと思います。もちろんこの信頼性は幅のあるものであり、記事の出典として用いることができるかどうかは、その記事の内容によって変わるでしょう。結局のところケースバイケースであるということは、すでにここでの議論でも指摘されていることです。たとえば、「この記事は専門的な話題を扱っているから、その分野の専門家による情報源を用いることが望ましい」という主張であれば、資料の正確さに踏み込んだ議論する必要もなく、専門的な知識のない編集者にも理解しやすいと考えます。そもそも、ある記述をするかしないかの議論を「信頼できる情報源か否か」の観点だけで議論すること自体が乱暴だったのではないでしょうか。--有足魚 2011年6月24日 (金) 19:06 (UTC)[返信]
答えは出ていると私も思いますが、肝心の大和屋敷氏が聞く耳を持たないので前に進まないのですよ。--世界最狂の魔法使いCray-G 2011年6月25日 (土) 03:10 (UTC)[返信]
確かに大和屋敷さんも私も「情報源」と「情報」をちゃんと区別して議論してきたわけではないように思います。その点で、議論がわかりにくくなっているのかもしれません。
「『情報源』の信頼性」とはその発行元や著者によって判断されることであり」ということであれば、それでも結構ですが、「発行元」や「著者」について判断材料がほとんどないことも多いですよね。本件の例などはまさにそれで、「立法と調査」という雑誌がどの程度の査読・検証をおこなっているかとか、平田容章氏が何の専門家なのかについて、ちゃんとした根拠を以て論証できる人は多分いません。結局、それぞれの編集者が根拠の乏しい推測によって「直感的に判断」するしかないわけです。そのような「直観的な判断」に際して、「一見しておかしいと思われる記述があり、ちゃんとチェックしていない可能性がある」とか「この部分の非常に自信がなさそうな言い方から見て、多分この分野については専門外なんだと思う」のような判断材料を入れてはいけない理由はないと思います。もちろん、コミュニティのコンセンサスとして「そんなあやふやな推測ではダメだ」ということになればそれまでの話ですが、多くの編集者が「そうかもしれないね」と同意している場合に、たった一人の編集者が「出典がないから話にならない」とダダをこねてはいけません。異議があるなら、「独自研究」のような的外れのルールを盾に取るのではなく、問題そのものをちゃんと議論すべきです。--Dwy 2011年6月25日 (土) 05:26 (UTC)[返信]
ここは井戸端ですから、一般論で議論が出尽くしているのならクローズしてよいでしょう。個別の記事についてはノートで、個人についてはコメント依頼を利用されてはどうかと思います。--有足魚 2011年6月25日 (土) 08:13 (UTC)[返信]
個人についてはというのは私宛でしょうかね。私は総括した人物像として大和屋敷氏を批判しているのではなく、本件の行動の何処に問題があったのか(=一般論との差異)を理解してもらいたいだけですので、コメント依頼とはまた異なるのですよね。なら氏の会話ページでやれ、という話になるんですけど。
いづれにせよ、クローズに反対はありません。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年6月25日 (土) 09:17 (UTC)[返信]

あ、えっと、僕ぜんぜん結論わかってないんですけど・・・。端的におねがいします。「日本の法令上、実験データの捏造や改ざんについては、行為そのものを直接禁止し、違反したものを罰する具体的な規定を含む法令は無い。」という一文(平田2006-10-27)を科学における不正行為に加筆しても良いのですか?削除された状態で、大和屋敷が(平田2006-10-27)の包括的な信頼性を証明しなければ加筆できないのですか?具体的にお願いします。--大和屋敷 2011年6月25日 (土) 11:30 (UTC)ノートで(平田2006-10-27)についての包括的な信頼性の合意が得られるまで【記事に投稿され反映された状態で維持される】のか【記事から削除された状態で維持される】のかという非常に具体的な対処に関わってきますので、「井戸端では結論が出た」と述べられている方には、なにとぞ対処法を具体的にお教えください。--大和屋敷 2011年6月25日 (土) 11:35 (UTC)ちなみに議論を一般化することは非常に容易で、記事:竹島 (島根県)において韓国側の主張する内容(争点)にはほぼすべて合理的反論が述べられており、この場合、韓国側の主張には合理的疑いがあります。この場合、韓国政府の主張という外形的権威は無視して【Wikipedia編集者間で、その情報源の信頼性について合意が得られるまで】記事に反映させない(削除しておく)べきなのか、過渡的に反映させておくべきなのか、どうでしょう。--大和屋敷 2011年6月25日 (土) 11:50 (UTC)田中上奏文という記事も論題になります。田中上奏文を真性のものとし偽書ではないと論じる立場は(とくに海外では)存在しており、このばあい合理的な疑いをWikipedia編集者が主張した場合、田中上奏文のかなりの記述を【過渡的に掲載すべきでない(削除すべきだ)】という主張に加担している可能性がありますよ。問題の重要性を、なかなかご理解頂けていないのが残念です。--大和屋敷 2011年6月25日 (土) 12:02 (UTC)いろいろ散発的に追加して申し訳ありません。平田2006-10-27については「日本の法令上~罰する具体的な規定を含む法令は無い。」と断言していますが、これは間違っているのですか?日本の法令上~罰する具体的な規定を含む法令は無い可能性がある(無いかもしれない)。」などと婉曲・責任回避的に言っていません。平田2006-10-27のこの一文は完全に間違っているのですか?事実関係として。--大和屋敷 2011年6月25日 (土) 12:18 (UTC)[返信]

論点が拡散してしまったため、期待したほど明確な形での結論にはなりませんでしたが、「『出典を出さなければ、議論に応じられない』という態度が正しい」に賛成した人は一人もいなかったわけですから、「記事のノートに帰って議論しろ」という結論なのでしょう。確かに、ここでこれ以上議論しても論点が拡散するばかりかもしれませんから、皆さんが「これ以上は付き合えん」ということなら、それも仕方ないと思います。
それから「個人についてはコメント依頼を利用されてはどうかと思います」の方について。世界最狂の魔法使いCray-Gさんが大和屋敷さんの編集態度をいろいろと批判され、それに対して大和屋敷さんが「個人攻撃だ」と言っておられるわけですが、大和屋敷さんは自分に向けられた批判に全く根拠がないとおしゃっているのでしょうか?私としても、「ページ数が書いていないので評価していません」という態度「科学における不正行為」の保護依頼に至るまでの編集経緯などには相当問題があったと思っています。「気の迷いだった。反省している」ということなら今さら問題にするまでもありませんが、「批判されるような問題は何もなかったと思っている」ということなら(つまり、同じ状況になったらまた同じことをするということなら)、一度コメント依頼で皆さんの評価を聞いてみた方がよいかなと思っています。--Dwy 2011年6月25日 (土) 16:44 (UTC)[返信]

あー明確なご回答だけいただきたいので。Dwyさんに(だけ)お願いしているわけではありませんので。他の井戸端を閲覧している方への対話とお考えください。--大和屋敷 2011年6月25日 (土) 17:53 (UTC)[返信]

正直これ以上議論して得るものがあるとは思えませんし、むしろよくない結果につながりそうですが。みなさんそれぞれに「明確」に述べておられることを、それを大和屋敷さんがどう受け止められるかは大和屋敷さんの問題でしょう。私がここで少なくとも言えることは、大和屋敷さんが合意形成に失敗したということです。なぜ失敗したかは、Wikipedia:合意形成を読まれるとヒントがあるかもしれません。--みっち 2011年6月26日 (日) 01:32 (UTC)[返信]
◆現状を敬称を略して書くと、
大和屋敷
ある投稿者が、ある「信頼できそうな情報源」をもとにWikipediaに「適切に引用」している場合において、その引用元が信頼できそうにないと感じた別の編集者は「その情報源は信頼できそうにないので却下すべきである」と主張(論証的・合理的に説明)するだけで、その引用元を採用することができなくなるのでしょうか?
その他大勢
ケースバイケースです。
大和屋敷
「Wikipedia:検証可能性」にこうこうこれこれと書いてあるのですが?
その他大勢
でもケースバイケースですよ。
大和屋敷
そんなこと何処に書いてあるのですか?
その他大勢
ケースバイケースなんだから書いてありませんよ。
有足魚
もうすでに答えは出ているのではないかと思います。
世界最狂の魔法使いCray-G
そうですね。
大和屋敷
えっと、僕ぜんぜん結論わかってないんですけど。結局ある投稿者が、ある「信頼できそうな情報源」をもとにWikipediaに「適切に引用」している場合において、その引用元が信頼できそうにないと感じた別の編集者は「その情報源は信頼できそうにないので却下すべきである」と主張(論証的・合理的に説明)するだけで、その引用元を採用することができなくなるのでしょうか?そうではないのでしょうか?
Dwy
期待したほど明確な形での結論にはなりませんでしたが、ケースバイケースということでしょう。
大和屋敷
明確なご回答だけいただきたいです。
といった流れになっていると思います。
「出ている答え」とは「ケースバイケースです」です。
なので大和屋敷氏が求めている「ある投稿者が、ある「信頼できそうな情報源」をもとにWikipediaに「適切に引用」している場合において、その引用元が信頼できそうにないと感じた別の編集者は「その情報源は信頼できそうにないので却下すべきである」と主張(論証的・合理的に説明)するだけで、その引用元を採用することができなくなる」乃至は「~~できなくならない」のいづれかの答えは出ていません。この答えを出す為には前提として、「~~できなくなるか否かのいづれか一方のみに客観的に決定出来、且つ、それがあらゆる場合に於いて必ず成り立つ」ことが必要になります。
私を含めた「その他大勢」は、「それがあらゆる場合に於いて必ず成り立つ」わけではないし、「客観的に決定出来ない」と認識しているので、ケースバイケース以外の結論は出てこないのです。何故そう認識しているのかと言うと、そう認識しているからこそWikipediaの理念に価値を感じ、価値を感じるからこそWikipediaの発展を願い、発展を願うが故にこうして井戸端会議に参加して理念の素晴らしさを理解してもらい共にWikipediaの未来の為に努力を続ける仲間(ウィキペディアン)になってもらいたいと考えた者が集まって来るからです。そうでないウィキペディアンは井戸端なんぞで時間を浪費することなく、記事を更新する等の実作業によってWikipediaの発展に貢献しているのです。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年6月27日 (月) 05:24 (UTC)[返信]

みっちさんのおっしゃるように合意形成に失敗したようですね。具体例を提示したので議論がそっちにひっぱられたのが失敗の原因かもしれません。記事のほうで編集方針が明確に対立してしまっているので困ったな。どうしよう。--大和屋敷 2011年6月27日 (月) 09:40 (UTC)この井戸端のトピックが相当長くなってしまって新規の方も参加されにくいでしょうし、Dwyさんとは議論がかみ合わないしCray-Gさんには一貫して個人攻撃受けているようじゃ議論になりませんね。このへんでこのトピックは閉鎖して、より一般論でまた開始したいと思います。--大和屋敷 2011年6月27日 (月) 09:47 (UTC)[返信]

「かみ合わない」「個人攻撃」で済ませているうちは有意義な議論はできないと思います。やり直せば合意形成できるというものではありません。この議論の顛末を咀嚼し終えるまで、当面新たな議論は控えた方が良いでしょう。- NEON 2011年6月27日 (月) 10:16 (UTC)[返信]

みなさまありがとうございました。残余はノート:科学における不正行為で検討を継続しております。--大和屋敷 2011年6月27日 (月) 10:29 (UTC)[返信]

当初「『出典を出さなければ、議論に応じられない』という態度が正しい」と主張していた大和屋敷さんが、「残余はノート:科学における不正行為で検討を継続しております」とおっしゃっていることこそが、ここでの「明確な回答」だと思います。皆様ありがとうございました。--Dwy 2011年6月27日 (月) 22:09 (UTC)[返信]