韋子粲

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韋 子粲(い しさん、生没年不詳)は、北魏末から北斉にかけての官僚は暉茂[1][2]本貫京兆郡杜陵県[3][4]

経歴[編集]

北魏の都水使者の韋雋(韋閬の子の韋範の子)の子として生まれた。斉王蕭宝寅雍州刺史となると、召し出されて府主簿となり、録事参軍に転じた。蕭宝寅が反乱を起こすと、子粲は弟の韋子爽とともに逃亡した[2]京兆郡功曹史となり、大行台郎中に累進して、爾朱天光に従った[1]孝武帝長安に入ると、子粲はこれに従って、行台左丞・南汾州刺史を歴任した[2]元象元年(538年)、東魏の大都督賀抜仁の攻撃を受けて南汾州を攻め落とされ、子粲は捕らえられた[5]晋陽に送られ、許されて高歓に仕えた[6][2]武定末年、南兗州刺史となった[7]。北斉の天保初年、西僰県男に封じられた。後に豫州刺史をつとめて、死去した。は忠といった[2]

子粲の兄弟は13人いたが、子粲が南汾州を失陥して東魏に降ったため、親族の多くは西魏で処刑された。ただ弟の韋道諧のみが生き残って東魏に入国した。子粲が顕位に上った後、子粲は道諧と別居し、弟に所得がなくとも援助しなかったため、肉親の恩愛を忘れた人物として非難された[6]

脚注[編集]

  1. ^ a b 北斉書 1972, p. 379.
  2. ^ a b c d e 北史 1974, p. 956.
  3. ^ 魏書 1974, p. 1009.
  4. ^ 北史 1974, p. 955.
  5. ^ 魏書 1974, p. 302.
  6. ^ a b 北斉書 1972, p. 380.
  7. ^ 魏書 1974, p. 1010.

伝記資料[編集]

参考文献[編集]

  • 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1 
  • 『魏書』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00313-3 
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4