関右馬允

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
せき うまのじょう

関 右馬允
生誕 1888年7月23日
日本の旗 日本茨城県
死没 (1973-12-19) 1973年12月19日(85歳没)
テンプレートを表示

関 右馬允(せき うまのじょう、1888年明治21年〉7月23日- 1973年昭和48年〉12月19日)は、明治期の茨城県日立市周辺で発生した日立鉱山の鉱害問題で久慈郡中里村入四間の住民側代表として会社側と対策交渉にあたった人物[1]新田次郎の小説『ある町の高い煙突』及びそれを原作とした同名映画の主人公である関根三郎のモデルとなった[2]

年譜[編集]

  • 1888年(明治21年) - 茨城県那珂郡川田村枝川の菊池家にて生まれる。幼名は三郎。
  • 1902年(明治35年) - 母の生家である茨城県久慈郡中里村入四間の関家の養子となる。
  • 1904年(明治37年) - 茨城県立太田中学校(現在の茨城県立太田第一高等学校)を病気により中退する。
  • 1911年(明治44年) - 茨城県太田町入四間3集落の煙害調査委員会委員長となる。
  • 1914年大正3年) - 5代目関右馬允を襲名する。
  • 1915年(大正4年) - 煙害対策のために建設された日立鉱山大煙突が通煙を開始する。
  • 1932年昭和7年) - 茨城県久慈郡中里村長に就任する(翌年退任)。
  • 1973年(昭和48年) - 死去

主要著作[編集]

  • 『茨城県巨樹老木誌』(上巻)(昭和11年、高和書店)
  • 『茨城県巨樹老木誌』(下巻)(昭和15年、高和書店)
  • 『日立鉱山煙害問題昔話』(昭和38年、郷土ひたち文化研究会)

出典[編集]

参考文献[編集]

  • 菅井益郎「日立鉱山煙害事件」『一橋論叢』第74巻第3号、日本評論社、1975年9月、321-340頁、doi:10.15057/1765ISSN 00182818NAID 110007638949 

外部リンク[編集]