郗超

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郗 超(ち ちょう、336年 - 377年)は、東晋の文官。字は景興または敬輿、小字は嘉賓。

生涯[編集]

東晋の名臣であった郗鑒の孫で、郗愔の子にあたり、祖父も父も東晋の皇室に忠義を尽くした。郗超は幼い頃から秀でた才能を示し、東晋の宰相を後に務める謝安からも自らの甥以上であると絶賛されていた[1]。成長すると東晋の大司馬である桓温の軍に入り、後に征西大将軍掾として常に桓温の傍に仕えた。桓温は英気高邁な人柄であり他人を賞賛する事は少なかったが、郗超と話を交えた桓温はその才能を計り知れないと語るほどに感嘆の念を抱き、以降桓温は郗超に丁重な態度を以て接し、両者は深い友情を結ぶまでに至った[2]

太和4年(369年)3月、桓温は徐州兗州刺史である郗超の父の郗愔、江州刺史である自身の弟の桓沖豫州刺史である袁真らに前燕の討伐を命じた[3]。当時、郗愔の管轄する徐州は精兵らの集まる地であったが、桓温は常々「京口では酒も呑めるし、兵士も集まる」と口にし、要衝である京口を郗愔が掌握する事を苦々しく思っていた[4]。内情を知らなかった郗愔は「共に東晋の皇室を支えよう」と桓温に書状を送ったが、この書状を閲読した郗超はすぐにこれを破棄し、異なる内容の書状を用意した。その内容は「自身は老骨の身であり遠征の負担には耐えられないため、所領の兵の指揮は桓温に一任し、自らは閑職に退いて養生を取る」といったものであった。これを聞いた桓温は大いに喜び、すぐに郗愔を会稽郡太守へと左遷し、また平北将軍を兼任、徐州・兗州の兵権を手にした事でその軍事力を強大化させた[5]

4月、桓温は歩兵・騎兵計5万の軍勢を率いて北伐を開始したが、郗超は行軍の困難さを指摘したものの聞き入れられなかった[6]。6月、桓温の軍は金郷に到着したものの、深刻な干害の発生により河川の水が干上がり水の供給が途絶えてしまった[7]。桓温は冠軍将軍の毛穆之を派遣して現地で黄河に連なる汶水と南方の清水を結ぶ運河の開墾を行い、清水を通して黄河への水軍の進軍を試みたものの、郗超は無理があるとしてこれに反対した。桓温はこれを聞き入れず進軍したが[8]、枋頭にて前燕の将軍である慕容垂の攻撃を受け大敗を喫した。

咸安元年(371年)、桓温は揚州寿春を攻め落とした後、郗超に対し「これで枋頭での恥を雪げたと言えるだろうか」と問うと、郗超はこれに同意した[9]。軍事面での結果が振るわなくなってから久しく、桓温は帝位簒奪の野心を抱くようになっていた。その夜、桓温の営中に赴いた郗超は、「明公(桓温)は既に最も重要な地位にあり、天下の責務は悉く公に帰するでしょう。伊霍の故事に倣う事がなければ、四海を制圧し天下を心服させる事はできない事になぜ気付かれないのですか!」と告げた[10]。これを聞いた桓温は郗超の策謀に従って皇帝司馬奕を東海王、追って海西公に格下げし、代わって会稽王司馬昱を簡文帝として擁立した。

こうして桓温が朝廷の実権を握ると、百官は桓温の腹心である郗超を皆恐れるようになった。謝安と左衛将軍の王坦之が郗超に会いに行った際、2人は夕暮れ近くになっても面会する事ができなかった。王坦之は諦めて場を去ろうとしたものの、謝安は「天命を全うするためにも、ここで耐え忍ばなくては」と引き留めねばならなかったという[11]司徒左長史に転じたが、母の喪のため辞めた。喪が明けると散騎常侍を除授されたが、就任していなかった。臨海郡太守となり宣威将軍の号が加わったが、受けなかった。

太元2年(377年)12月、42歳で死去した[12]。郗超は桓温の側近であったが、父の郗愔は晋王朝に忠実であったため、自らの行動を隠した。臨終の際、一つの本箱を文生に渡し「元々はこれを燃やそうとしたが、公(郗愔)は年老いたので必ず傷心が迷惑になるだろう。もし、私の死後に公の寝食に差し支えるとしたら、この本箱を呈するように。そうでなければ、直ちにこれを燃やせ」という遺言を残した。彼の死後、郗愔が悲嘆のあまり発病すると、文生は郗超の本箱を郗愔に呈した。その中には郗超が桓温と共に密謀した計略を書いた書簡があった。これを見た郗愔は「小子の死が遅れたのが恨めしいな!」と大怒し、痛哭を止めたという[13]

脚注[編集]

  1. ^ 世説新語』巻2, 言語「謝公云:「賢聖去人、其間亦邇」。子侄未之許、公嘆曰:「若郗超聞此語、必不至河漢」」
  2. ^ 晋書』巻67, 郗超伝「桓温辟為征西大将軍掾。温遷大司馬。又転為参軍。温英気高邁。罕有所推。与超言、常謂不能測、遂傾意礼待」
  3. ^ 資治通鑑』巻102「[太和四年]春三月、大司馬温請与徐兗二州刺史郗愔、江州刺史桓沖、豫州刺史袁真等伐燕」
  4. ^ 『晋書』巻67, 郗超伝「温恒云:「京口酒可飲、兵可用」、深不欲愔居之」
  5. ^ 『資治通鑑』巻102「愔子超為温参軍、取視、寸寸毀裂、乃更作愔箋、自陳非将帥才、不堪軍旅、老病、乞閒地自養、勧温並領己所統。温得箋大喜、即転愔冠軍将軍・会稽内史、温自領徐兗二州刺史」
  6. ^ 『資治通鑑』巻102「大司馬温自兗州検燕。郗超曰:「道遠、汴水又浅、恐漕運難通」。温不従」
  7. ^ 『資治通鑑』巻102「[太和四年]六月辛丑、温至金郷、天旱、室絶」
  8. ^ 『資治通鑑』巻102「温使冠軍将軍毛虎生鑿鉅野三百里、引汶水会納清水」。郗超曰:「清水入河、無通運理……」。温又不従」
  9. ^ 『晋書』巻67, 郗超伝「尋而有寿陽之捷、問超曰:「未厭有識之情也」」
  10. ^ 『晋書』巻67, 郗超伝「明公既居重任、天下之責将帰於公矣。若不能行廃立大事、為伊霍之挙者、不足鎮圧四海、震服宇内、豈可不深思哉!」
  11. ^ 『世説新語』巻6, 雅量「謝太傅与王文度共詣郗超,日旰未得前,王便欲去。謝曰:「不能為性命忍俄頃?」」
  12. ^ 『資治通鑑』巻104「[太元二年]十二月、臨海太守郗超卒」
  13. ^ 『晋書』巻67, 郗超伝「初,超雖實黨桓氏,以愔忠於王室、不令知之。將亡、出一箱書、付門生曰:「本欲焚之、恐公年尊、必以傷愍為弊。我亡後、若大損眠食、可呈此箱。不爾、便燒之。」愔後果哀悼成疾、門生依旨呈之、則悉與溫往反密計。愔於是大怒曰:「小子死恨晚矣!」更不復哭」

参考資料[編集]