邪摩堆

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邪摩堆とは 北史隋書)に記述される倭国の都。大和のことである。隋書では「邪堆」と記述される。

概要[編集]

倭王姓は阿毎、字は多利思比孤(隋書では多利思孤)が邪摩堆(大和)に所在し、大業四年(608年の使者、裴世清(隋書では裴清)と相見えた。 邪摩堆(大和)に都しており、魏志で謂うところの邪馬臺(ヤマト)であるとして紹介されている。

北史』居於邪摩堆、則魏志所謂邪馬臺者也。
隋書於邪堆、則魏志所謂邪馬臺者也。

邪摩堆(大和)の所在地[編集]

倭国は、百済新羅の東南、水陸三千里の大海の中にあると記述されている。倭国の国境は東西が五ヶ月の行程で、南北に三ヶ月の行程である。竹斯国(筑紫国に比定されている)から邪摩堆まで、「東」へと向かっている。

  • 『倭國在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海中。』
  • 『其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。』
  • 『度百濟、行至竹島、南望耽羅國。』
  • 『經都斯麻國、迥在大海中。又至一支國。』
  • 『又至竹斯國、又至秦王國。其人同於華夏、以為夷洲。』
  • 『又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於倭。』
  • 『後十日、又遣大禮哥多毗從二百餘騎、郊勞。既至彼都。』

『北史』と『隋書』の記述について[編集]

裴世清が邪摩堆(大和)について以降、隋書では倭王との会談の様子が記述されている。しかし、北史では記述されておらず、省略されている[1]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝 中国正史日本伝(1) 石原道博編訳 岩波文庫』P73

参考文献[編集]