資宗王

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資宗王(すけむねおう、建久2年(1191年) - 没年不詳)は、鎌倉時代公家兵部卿仲資王の次男。官位従二位神祇伯

経歴[編集]

後鳥羽院政期初頭の建仁元年(1201年王氏爵により従五位下叙爵する。神祇伯を世職としていた花山王氏は兄・業資王が継いでいたため、元久2年(1205年)資宗王は源朝臣姓を与えられ、侍従に任官する。建永2年(1207年)従五位上に昇叙されるが、翌承元2年(1208年)5月に殿上にて蔵人頭葉室光親に対して放言を浴びせ、一時解官となった。

同年12月に赦されて官界に復帰すると、建保3年(1215年正五位下、建保6年(1218年従四位下承久元年(1219年右近衛少将羽林家の官歴を辿り、承久4年(1222年)には従四位上に昇叙される。しかし、元仁元年(1224年)兄・業資王が没したため、資宗王は神祇伯に補せられ王氏に戻って花山王氏を継いだ。元仁2年(1225年正四位下、嘉禄2年(1226年従三位と昇進して、業資王の極位に並んだ。

その後、天福2年(1234年正三位に昇叙されて、父・仲資王の極位に並び、暦仁元年(1238年)には花山王氏として初となる従二位にまで昇った。仁治2年(1241年)兄・業資王の子である源資光を差し置いて、自身の子息である資基王に神祇伯を譲る。このため、花山王氏は二流に分裂し、数世代に亘って神祇伯の官職を巡る相論が続くことになった[1]

寛元2年(1244年出家。最終官位は神祇伯従二位。

官歴[編集]

公卿補任』による。

系譜[編集]

『尊卑分脈』による。

  • 父:仲資王
  • 母:卜部基仲の娘
  • 妻:藤原盛実の娘
    • 男子:資基王(?-1264)
    • 男子:源康成 - もと淳資または守資
    • 女子:宗子女王
    • 女子:吉子女王

脚注[編集]

  1. ^ 赤坂[2019: 158]

参考文献[編集]

  • 日本史史料研究会監修、赤坂恒明著『「王」と呼ばれた皇族』吉川弘文館、2019年
  • 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
  • 『尊卑分脈 第三篇』吉川弘文館、1987年