豊増秀俊

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豊増 秀俊(とよます ひでとし、1902年1月 - 1987年11月)は、日本人文学者。大学などには勤務せず、終生在野の立場で研究に当たった。

経歴[編集]

豊増竜次郎の次男として佐賀県佐賀市に生まれる。1927年、早稲田大学文学部に入学するが、1930年に学問的理由により退学、独学する。この間、弁証法的唯物論を確信する。

1935年7月、財団法人東亜経済調査会(のち南満州鉄道に合併)に入会する(調査局調査課)。1940年に満鉄を退社し、中華民国新民会(在北京)に入会、専門委員、企画部次長を務める。1941年12月に退職する。1942年1月、中央亜細亜協会(在北京)の設立に参加、主宰となる。1944年4月に退職して日本に帰国する。以後、東京で研究に専念した[1]

著書[編集]

  • 『芸術の排撃』批判社、1948年
  • 孫子』昭和印刷 (印刷者)、1956年
  • 『芸術の批判』批判社、1960年
  • 『原始社会 社会の発生,進化の方向,発展の段階,および国家の成立と家族の形成に関する仮説』批判社、1962年
  • 『家族と革命』批判社、1965年
  • 『豊増秀俊選集 第1巻』リーベル出版、1991年
  • 『豊増秀俊選集 第2集』リーベル出版、1991年

脚注[編集]

  1. ^ ここまでの出典は『豊増秀俊選集 第1巻』著者略歴