藤田淳教

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藤田 淳教

藤田 淳教(藤田 淳敎、ふじた あつのり、1896年明治29年〉4月27日[1] - 1963年昭和38年〉10月23日[2])は、昭和時代の台湾総督府官僚。公吏台中市尹台東庁長。旧姓は平良、幼名は亀吉[3]

経歴[編集]

鹿児島県姶良郡国分町(現・霧島市国府)出身[1]。平良淳夫の四男として生まれ、藤田半次郎の養子となる[4]日本大学商学部予科を経て、1925年(大正14年)同大文学部法律学科を卒業し、高等文官試験行政科試験に合格する[1][4]

合格後、直ちに台湾総督府に理事官として出仕し、1928年(昭和3年)10月に高雄州岡山郡郡守、1929年(昭和4年)12月に台北州勧業課長、1930年(昭和5年)5月に新竹州教育課長、1931年(昭和6年)4月に台北州教育課長を経て、1935年(昭和10年)9月20日に台中市尹に就任する[1][4]。その後は、新竹州内務部長、台東庁長、総督府事務官、殖産局特産課長、同府書記官など務め[3][4]、1944年(昭和19年)退官した[5]

戦後は、北海道地方更生保護委員会委員長を歴任した[2]

脚注[編集]

参考文献[編集]