藤井新八郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

藤井 新八郎(ふじい しんぱちろう、1875年明治8年) - 1948年昭和23年))は、日本医師秋田県仙北郡六郷町(現・美郷町)六郷字本道町出身。六郷町長も務めた。

来歴[編集]

本道町の角に住み、「ゲンジ」さんと呼ばれていた町医者である藤井玄瑞の長男。六郷町における医者が3代続く家系だった。1891年(明治24年)、秋田中学(現・秋田県立秋田高等学校)を卒業し、第一高等学校へ進学[1]。1896年(明治29年)には、帝国大学医科大学(大学名は1897年に東京帝国大学に改称)へ入学し、1901年(明治34年)に卒業した。卒業当初は同大学病院の副手、のち松江市の病院へ赴任する[2]

その後、郷里へ帰り、六郷町において、初めて開業した帝大卒の医学士となる。1917年(大正6年)、六郷町の町会議員となり、1929年(昭和4年)に県の医者会会長に就任。1930年(昭和5年)当時の六郷町の開業医は、新八郎の他にも高橋利貞、高橋哲三、栗林信、赤坂順治、歯科医の鷹觜胖(たかのはしゆたか)、舟木喜一と多士済々だった[2]。新八郎は町民からは「院長さん」と慕われ、1939年(昭和14年)に推されて、町長に就任。日中戦争第二次世界大戦の難しい4年間、町政運営に尽くした[2]

人物[編集]

小杉天外の小説「魔風恋風」が読売新聞紙上で人気が出てきた頃、そのモデルが新八郎と美校生の小西正太郎かと、ホットな話題が町に流れた[2]。天外は同じ六郷町の出身である[1]

親族[編集]

  • 藤井帰一郎(きいちろう) - 内小友村宮林新田(現在の大仙市内小友)出身。小松清兵衛の次男。1883年(明治16年)12月、玄瑞の養子となり、長女タケと結婚。1887年(明治20年)、六郷上町に分家。六郷町の教育の基礎を築いた[3]
  • 藤井達次 - 新八郎の次男。1904年(明治37年)生で、北海道帝国大学農科を卒業後、東京医学歯学専門学校(現・東京医科歯科大学)に進み医師となる。1929年(昭和4年)に秋田女子師範学校(現・秋田大学教育学部)で生物学を講じた。1963年(昭和38年)以降は、男鹿保健所長をつとめた。また、六郷町の郷土史家である栗林新一郎とは知友である[1]
  • 新八郎は、小西正太郎と姻戚関係(義弟)にあたる[1]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 藤井達次. “人・その思想と生涯 (7)”. 2019年1月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月12日閲覧。
  2. ^ a b c d 『鐘はかたり 清水はささやく』
  3. ^ [秋田人名大事典(第二版)]

参考文献[編集]

  • 『六郷町史』
  • 井上隆明(監修) 著、秋田魁新報社 編『秋田人名大事典(第二版)』秋田魁新報社、2000年7月。ISBN 4-87020-206-9 
  • 六郷町史編纂委員会(編纂)『鐘はかたり 清水はささやく』(六郷町小史)、2004年