船木米治

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船木 米治(ふなき よねじ、1891年明治24年) - 1951年昭和26年)2月12日[1])は、日本農民運動の指導者[2]政治家。鳥取県西伯郡県村[3]

経歴[編集]

鳥取県出身。1923年頃から鳥取県西伯郡地方で農民運動に入り、日農山陰総連合理事となり、労農党に所属する[1]。のち全農全会派に属し、鳥取県農民総同盟創立にも参加する[1]。保証責任県村信用販売購買利用組合理事をつとめる[4]

戦後1945年に生き残りの同志を集めて河岡農民組合再建準備会を開き[2]日本共産党に入党する[1]。日本共産党西伯地区委員、鳥取県委員等を歴任する[1]

政治的にも経済社会的にも混乱のさなかの1946年に奪権を目ざして県村長選出の村議会にデモをかける[2]。前村長派が退場したあと、組合派議員の単独審議によって船木共産党員村長が誕生する[2]。村長のほかに県農民組合長、農業会長を兼ねる[2]

農協経理の私物化、土建会社との不明朗な関係を追及され1951年春に共産党から除名、同年秋には村長辞任に追い込まれる[2]。1951年2月12日、脳溢血で死去する[1]

人物[編集]

住所は鳥取県西伯郡県村大字河岡[4](現・米子市)。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f 『解放のいしずえ』270頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年1月3日閲覧。
  2. ^ a b c d e f 『ドキュメント中国百年 第2部(流星群)』72 - 73頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年1月3日閲覧。
  3. ^ 『鳥取県議会年報 昭和22-32年度』129頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年1月3日閲覧。
  4. ^ a b 『官報 1935年07月16日』官報 第2560号 15頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年1月3日閲覧。

参考文献[編集]

  • 大蔵省印刷局編『官報 1935年07月16日』日本マイクロ写真、1935年。
  • 解放運動犠牲者合葬追悼会世話人会解放のいしずえ刊行委員会編『解放のいしずえ』解放運動犠牲者合葬追悼会世話人会、1956年。
  • 鳥取県会事務局調査課編『鳥取県議会年報 昭和22-32年度』鳥取県会事務局、1951年。
  • 中国新聞社編『ドキュメント中国百年 第2部(流星群)』浪速社、1967年。