石丸藤太

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石丸 藤太(いしまる とうだ、1881年明治14年)12月14日 - 1942年昭和17年)12月27日)は、日本軍事評論家大日本帝国海軍軍人である[1][2]。最終階級は海軍少佐[3][4]

経歴・人物[編集]

佐賀県に生まれ[1][2]1898年(明治31年)12月、海軍兵学校に第29期生として入学する[2][3][4]1901年(明治34年)12月に卒業後は[2][3]、大日本帝国海軍の軍人となり、1910年(明治43年)に海軍砲術学校の教官に就任した[1][2]1912年(大正元年)12月、海軍大学校(甲種12期)に入学し1914年大正3年)5月に卒業[5]。同年、戦艦「相模」の砲術長となったが[2]、翌年には少佐に降格し予備役となった[1][6]

1931年(昭和6年)から軍事評論家としての活動を開始する[1][2]。その後は『東京日日新聞』の記者ともなり[6]、晩年はジャーナリストとしても活動した。1939年(昭和14年)5月26日、大審院は石丸が軍事小説執筆のため平時戦時における軍隊編成装備の情報を松下芳男から入手したことが軍機保護法違反にあたるとして懲役1年6月執行猶予1年の有罪判決、確定により失官となる[3][4][5][7][8]。これにより正六位返上を命じられ[9]勲四等功五級及び明治三十七八年従軍記章大正三四年従軍記章大礼記念章(大正)を褫奪された[10]

著書[編集]

  • 『日米戦争日本は破れず』[注釈 1]
  • 『日米果して戦ふ(う)か』[注釈 2]
  • 『日英必戦論』
  • 『列国海軍と其の国民』

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 近代文献人名辞典(β)では『日米戦争 日本は負けない』となっている。
  2. ^ 近代文献人名辞典(β)では『日本果して敗るゝか』となっている。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e 石丸藤太”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社). 2023年8月14日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g 石丸 藤太”. 20世紀日本人名事典(日外アソシエーツ). 2023年8月14日閲覧。
  3. ^ a b c d 『海軍兵学校出身者(生徒)名簿 3版(改定版)』50頁。
  4. ^ a b c 『日本海軍士官総覧』99頁。
  5. ^ a b 『日本陸海軍総合事典 第2版』646頁。
  6. ^ a b 石丸藤太 - 近代文献人名辞典(β)”. 2023年8月14日閲覧。
  7. ^ 大審院判決全集 第6輯 第17號-第34號(昭和14年7-12月)
  8. ^ 官報 1939年7月6日 二十八頁
  9. ^ 官報 1940年5月23日 九二〇頁
  10. ^ 官報 1940年5月28日 一一〇二頁

参考文献[編集]

  • 小野崎誠編『海軍兵学校出身者(生徒)名簿 3版(改定版)』海軍兵学校出身者(生徒)名簿作成委員会、1987年。
  • 戸髙一茂『日本海軍士官総覧 【復刻版】財団法人海軍義済会編 海軍義済会員名簿(昭和17年7月1日調)』柏書房、2003年。ISBN 4-7601-2340-7
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典 第2版』東京大学出版会、2005年。